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2009/01/08

神の言葉

エズラ記 第5章
 神殿建築の再開について預言したハガイとゼカリヤの言葉により、指導者ゼルバベルと祭司イェシュアは力づけられて神殿建築を再開した。この場合の預言とは、やがて起こることを予め言い当てるのではなく、「このようにせよ」との神の命令をしかるべき人に伝えることであった。そこには、まず叱責の言葉があった。しかしその後で主は、「神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受ける」と言われた。それは、信仰者にとっての最大の励ましの言葉である。
 しかし、間違ってはいけないのだが、この神の命令を実行することは、世に背くことである。神は、私たちがなるほどと思うような良いことばかりは命令されない。かえって、良くないように思えることを命令されるのである。そして、このことはまさに、その良くないと思われることだったのである。
 果たして、総督タテナイとシェタル・ゼボナイが異議を申し立てにやって来た。彼らは言った、「この神殿を建てよと誰がお前たちに命令したのか」。私たちは、教会をこの世の人の命令により建てるのではない。天の神の命によって建てるのである。私たちがこの世に媚びへつらわず、ただ神にのみ従うとき、神ご自身が私たちを助けてくださるのである。「しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができなかった」。
 そこで妨害者たちは、再度ぺルシアの王に手紙を送ることにした。その手紙の中には、かつてキュロス王がイスラエルの民にそのような、神殿を再建せよとの命令を本当に出したのかどうか調べて欲しい旨が書かれており、それが彼らの墓穴となった。良く考えてみれば、彼らは一度アルタクセルクセス王から手紙で、神殿の再建を阻止する旨の指示をもらっていたのであり、再度ペルシアの王に問い合わせする必要などなかった。しかし、なぜかそのようになってしまった。神の目がイスラエルの上に注がれていたので、彼らは歯向かうことができなかったのである。
 人の立てる戦略は、神の前では空しい。それは、実は穴だらけなのである。人の意識は、一見連続しているように思える。しかし、人は人生の三分の一は寝ているのであり、また、起きているときでさえ、彼は一度に一つのことしか考えられない。しかし、私たちの生活には、たくさんのことが連続して起こってくるのであり、それに対処するために、私たちの意識は細切れに分断されてしまい、ほとんど脈絡のないものになってしまうのである。その破片を拾い集めて、つなぎ合わせ、一つの体系にできるのは、神をおいて他にいない。神殿の建築を中断して、自分たちの家を建て、日常の思い煩いに没頭していたときのイスラエル民族の意識も、神殿の再建が始まったときにあわてて阻止しようとした先住民たちの意識も、そのような一種朦朧とした中にあったのであり、そこに預言者を通して、神の言葉が突き刺さり、そこに確かな道を造ったのである。それゆえ、私たちは、絶えず祈らなければならない。祈りがなければ、何事も脈絡のないものになってしまうのである。

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挫折の理由

エズラ記 第4章
 先住民たちは、帰還したイスラエルの民がその地に神殿を建てていることを知り、自分たちにもその建設を手伝わせてほしいと言ってきた。しかし、それは偽りであり、実は彼らはその建築を妨害するつもりだったのである。彼らは、明らかに敵意を抱いてそのことを企てたのであり、それは彼らが、イスラエル人たちがしたことを、まさに自分たちへの宣戦布告と受け取ったからであった。
 私たちもときおり、そのような妨害を受けることがある。そして、私たちは、そのときになってから、それをなにか思いがけないことのように受け取って、戸惑うことがある。しかし、実は、それは最初から起っていたことなのであり、あるときにそれが外に現れ出たにすぎないのである。そのように私たちは、世の敵なのである。
 その地の住民は、自分たちの嘘がばれたのを悟ると、今度はペルシャの王に、イスラエルの民のしていることを悪く訴えたのであった。その企ては効を奏し、ペルシャの王は、イスラエルの民の神殿建設を中止させる命令を出した。そして、そのときから神殿の建築は、約20年間も中止させられてしまうのである。
 しかし、この20年という長きに渡る工事の中断は、いったいどういう意味を持っているのだろうか。それは、いったいだれのせいなのだろうか。また、どこに問題があったのだろうか。それは、預言者ハガイの書に書かれているように、彼らが神よりもこの世の権力に聞き従ったからだ。この世が否と言ったとき、彼らはいともやすやすとその声に聞き従い、神殿建築を中止してしまったのだった。そのとき彼らは、神に聞くこともしなかったのだろう。そして彼らは、今度は神殿ではなく、それぞれ自分たちの家を建て、そこに安らかに住み続けたのであった。しかし神は、そのような彼らに対して、預言者ハガイによって語りかけられた、「今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか」と。それは、神殿建築の再開を命令したものであった。
 私たちも今日の伝道において、「訪問伝道はエホバの証人だと思われるからやめよう」とか、「公園でビラを配るのは、変な人だと思われるからやめよう」とか言って、結局安穏とした生活に甘んじていることがある。しかし、そのような私たちに対して、神は語られるだろう、「今、お前たちは、私の教会がこんなに閑散としているのに、自分たちは習い事や楽しいサークル、学校、会社等に通っていてよいのか」と。それらは、実は、自分たちの楽しみや生活費のためには労力を使うが、神のためには何一つ成そうとしないことなのである。それゆえ、今日の教会は、何十年もの間、建設がストップした状態なのである。

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宣戦布告

エズラ記 第3章
 彼らは、70年ぶりに自分たちの土地に帰ってきた。しかし、そこにはすでによそ者が住み着いていた。つまり、その地にあっては、むしろ彼ら自身がよそ者になっていたのである。そこで彼らは、その地に住み着いていた民に恐れを抱きながらも、定められた場所に祭壇を築き、そこで神に焼き尽くす捧げ物を捧げた。このことが何を意味するのかをよく考える必要がある。それは、異教の神々に対する宣戦布告なのであり、それはそのまま、その地に住む異教の民に対する宣戦布告なのである。
 私たちは、この日本で伝道している。毎週の礼拝を守り、ときどき伝道集会等を行う。そしてそれは、人々に罪の赦しの福音を告げ知らせる愛の行為だと思っている。しかし、それを受け取る側から見た場合には、実は私たちはよそ者であり、私たちは、まさにこのときのイスラエルの民のように、彼らに向かって宣戦布告をしているのである。というのは、私たちの捧げる礼拝は、イスラエルの神の祭壇であり、焼き尽くす捧げ物は、私たち自身であるからである。そのように完成された祭儀により、私たちは、この地の神々とそこに住む人々を心底から怒らせているのである。
 祭壇を築き、犠牲を捧げ終わった彼らは、次に神殿の基礎を築いた。それは、まさにこの地を支配するための侵略の開始なのであり、彼らの目的は、この地から先住民を追い出し、この約束の地を独占することなのである。しかし、このとき彼らは、おそらくそのことを明確に意識してはいなかっただろう。しかし、遅かれ早かれ、そのようになるのであり、彼らの神が彼らが先住民との共存を決して許さないのである。それは、ヨシュア記における、あの最初の約束の地奪還から変わっていないのである。
 現代の教会時代を生きる私たちの状況も、またこれと変わってはいない。主イエスは、「すべての国民を弟子とし」と言われたのであり、土着の宗教との混合を決して許されないのである。つまり、私たちの目的は、すべての人を改心させて、偽物の神々を捨てさせることであり、それは、愛の行為というよりもむしろ、血みどろの戦いというべきものなのである。このことを意識せずに伝道はできない。伝道とは、侵略である。それが唯一の神を信じる私たちの唯一の方向性なのである。なぜなら、ここからそれる者は、結局は信仰からそれ、罪を憎み、全世界の人を哀れみ愛するところのキリストの愛からそれる者となるのだから。

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