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2009/01/06

神の民

エズラ記 第2章
 エズラ記におけるイスラエル民族のエルサレム帰還の契機は2度ある。1度目は、神殿の再建のために上って来たシェシュバツァルの一行であり、その中に指導者ゼルバベルや祭司イェシュア等がいた。そして2度目は、神殿の再建後にこの書の著者エズラの一行が上って来たときであり、このときに建物としての神殿に祭儀と律法が施行され、命が吹き込まれたのだった。
 それにしても、「10年一昔」とか「住めば都」とよく言われるが、バビロン捕囚から70年以上も経過し、もはや住み慣れてしまった土地を離れ、そこで生まれた子供たちをも引き連れて、遙かな廃れた土地へ、彼らはまたしても帰って来たのであった。ここに揚げられているおびただしい数の人また人。その光景はさながらに、家畜の大群のようであったろう。
 なぜ彼らは帰って来たのか。何もないところへ。その理由はただ一つ。彼らの神の祝福を得るためであった。その祝福とは、まず、異教の民の支配からの解放である。かつては、彼らの神が彼らを守っていてくださっていた。しかし、かつて彼らがそこから迷い出たために、神も彼らを捨てられた。しかし、いままたその力強い御腕の加護の元に戻る日がきたのである。そして次に、神の契約に与るためである。そして、そのもっとも具体的なものが、いま彼らが帰ってきたところの約束の地なのである。
 しかし、彼らがそこへ帰るということのもっとも強い理由、すなわち本当の理由はむしろ、彼らが神の民であるということである。「神の民」、それは聖なる民である。その所以は、罪を犯さないということにではなく、決して神を忘れないということにある。この大移動の機動力となった人たちは、みな実はイスラエルの神の神殿を見たことのない人たちだった。なにせ70年も経っていたのだから。そのような彼らが、ある日突然に、何かに取り付かれたように、遙かな土地に恋い焦がれて、そちらへ向かって歩き始める。そのようなことが、まともに考えられるだろうか。ああそれは、決してあり得ないことだ。もし、彼らが神の民でなかったとしたら。彼らの体の中には、神の味と言おうか、何と言ったら良いだろうか。とにかく、神の匂いというか汗というか、体液というべきだろうか、それくらい神と親密な何かが染み付いていたのである。そして、それゆえに、彼らは異境の地で、異境の文化に染まりながらも、先祖の神を決して忘れることがなかった。それゆえ、神も彼らを忘れたことがなかったのであり、70年後に彼らを異境の地から導き出し、そしてご自身の与えられた約束の地に連れ帰られるのである。
 ああしかし、私たち現代に生きる者は、どうであろうか。旧約聖書を一度も読んだことのない人が、イエス・キリストの福音を初めて行った伝道集会で受け入れる。十字架の意味も、罪の意味も、救いの必要性もそれまで聞いたことの無かった人が、天の神を仰いで、信じますと告白する。それは、いったい何であろうか。おおそれは、神が私たちの内に住まわせたご自身の霊に違いない。私たちもまた神の似姿に造られたのであり、私たちの内には、創造主なる神を慕い求める霊が住んでいるのである。その意味で、私たちもまた神の民なのであり、そのことが現代における宣教の原動力なのである。

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