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2008/12/28

聖書を動かす

 聖書の中の諸々の対象をコンピュータに入れるために、それらをオブジェクト化することはすでに述べた。しかし、単にオブジェクト化するだけなら、それは聖書の記述をデータベース化することとあまり違わないかも知れないから、わざわざオブジェクト指向技術を導入するまでもないだろう。しかし、ここで想定されていることは、明らかにそのようなこととは異なり、実際に聖書を動かすことにより、そこから有益な結果を導き出し、それを私たちの信仰生活に応用しようということなのである。
 それでは、聖書を動かすとは、どのようなことなのだろうか。そもそもその目的は、なんなのだろう。それは実は、聖書に書いていないことをそこから得ようという目論みなのである。しかし、聖書に書いてないことを導き出すことは、神を冒涜することになるのではないか。ヨハネの黙示録に、「これにつけ加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる」とあるように、それは危険きわまりないことなのではないか。しかしまた、ヨハネの福音書には、このように書かれている。すなわち、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と。そこで、神に忠実な心で探求することは、あるいは許されることなのかも知れない。
 聖書を動かすとは、具体的には、聖書から必然的に得られる結論を計算によって得るということである。つまり、「アブラハムの一生で、彼がいちばん辛かったときはいつか」というようなことを知ろうとするのである。そしてそれは、聖書を実際に動かしてみることによるのである。例を挙げて説明しよう。
 前論のように、まずアブラハムの行為をすべてオブジェクト化する。それらには、年月日や時間、場所、聖書の書名や章、節等、様々な属性が付加されている。それらに加えて、その行為が引き起こす感情を喜怒哀楽の面から、その標準的な大きさとその後の衰退速度等を数量的に評価して記録する。すると、それらは加算可能となる。つまり、アブラハムの生涯において、それらを時間軸に沿って加算することにより、アブラハムの生涯における喜怒哀楽それぞれの数値の推移がグラフ化できることになる。そこで、アブラハムというオブジェクトに尋ねてみることが可能となる。「あなたの生涯で一番辛かったときは、いつですか」と。すると彼は答えるだろう、「それは、イサクを生贄として捧げよとの神の命令に従って出て行った、あの3日間である」と。アブラハムというオブジェクトは、彼を主体とする全行為オブジェクトを検索し、それを彼の生涯の時間軸に沿って集計し、喜怒哀楽の「哀」の感情が一番高く積算される日時を算出し、その時点で集計されている行為オブジェクトの名称を回答として返したのである。
 この例は、非常に単純な例であるが、例えばダビデの生涯においては、頻繁に戦いがあり、サウルから追われ、味方も少なく、外部には異邦の民が待ち受けていたり、様々な要素が複雑に加算されることになり、そのようなダビデの心の状態をシミュレートすることは、そのころ歌われた詩篇と対照できることをも考慮すると、非常に興味深い結果が期待できるように思う。さらに、そのようにして算出した、対象人物の生涯の興味深い時期に、その対象人物にある行為を通じて働きかけた人物を列挙するようなことや、今度はその働きかけた人物の感情の起伏の、彼の人生における位置づけ等を観察することもまた興味深いことに思われる。そのようにして、聖書に記述されていないことを聖書の記述から算定、推定することは、さながら聖書を深く読むことに匹敵し、例えば100回読まなければ得られない深い考察を、聖書の中のある人物に問いかけることにより、その人物との対話の中で、興味深くそれに気付き、さらにその理由や背景についても、さらなる問いかけにより、新たな知識として提示させることが可能なのである。そのようにして、従来の、聖書を深く読むことによりその文脈の中に新たな真理を発見するという手順とは違う、新しい手順としての、まず対象人物に問いかけて、そこに返される答えに感動し、その後に聖書を深く読むという手順が可能となるのである。

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聖書オブジェクトの概念

 まず、アブラハムを聖書オブジェクトとして定義するために、その構造を考えてみよう。
 彼は人である。これをオブジェクト指向設計では、人という汎用オブジェクト(これをクラスと呼ぶ)を創造し、それからアブラハムを生み出す(派生させる)ことで実現する。彼は、名前、年齢、信仰、罪等々を持っている。これらは、人としてのアブラハムの特徴(属性)である。彼はまた、旅をするという働き(機能)を持っている。彼は、カルデヤのウルから父テラと共にハランに向けて出発したのであった。
 彼には、その他にもたくさんの性質がある。例えば、彼はたくさんの財産を持っていた。しかし、この「持つ」ということをアブラハムの行為として実装したのでは、アブラハムというオブジェクトはすぐにパンクしてしまうだろう。そこで、これを「所有される」と受動的に捉えて、それぞれの所有物の方に一つずつ実装するようにすれば、アブラハムは、それらすべてを軽々と所有できることになる。アブラハムを所有者として持つオブジェクトをすべて集めて来ればアブラハムの持ち物が明らかになるのである。
 同じように、アブラハムの行ったことも、アブラハムというオブジェクトの内部に実装するのではなく、「行為」というオブジェクトを作って、そのオブジェクトの「主体」という属性の内容を「アブラハム」であるとすることにより、煩雑さをさけることができる。この「行為オブジェクト」は、属性として、自分自身の内部に「行為の内容」を保持する。また、「時間」と「場所」という属性を併せ持つ。これにより、聖書の記述を文字通りの順序で記述することが可能となる。
 このように、オブジェクト指向(物指向)と言っても、必ずしも現実に存在するものを文字通りに実装するのではなく、行為のように形の無いものをもある物のように実装することがあるのである。これは、どこか聖書の「見える物は、見えないものから」との記述に整合しているのではないだろうか。
 このように、アブラハムに対してだけでなく、聖書のすべての登場人物について、その行為をオブジェクトとして記録することは、なんとエキサイティングなことであろうか。それにより、ある人に着目したときに、その人の行ったことを即座に検索したり、順序立てて列挙することがいつでも簡単にできるようになるのである。同じように、歴史的なある期間に行われた、例えば「戦い」のような特定の種類の行為の検索や、ある地域における出来事の列挙やそれらの組み合わせによる検索や情報抽出等も自由にできるようになるのである。

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