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2008/12/26

罪の呪いからの解放

歴代誌下 第33章
 ヒゼキヤが晩年に主の恵みから落ちてしまったことは、その子マナセにも影響を与えたのだろう。彼は、そのように気むずかしい神よりも、手近な異境の偶像に望みをおいた。彼は、父ヒゼキヤが取り壊した高台の祭壇やバアルの祭壇、アシュラ像を復活させた。彼は、それら異教の神々によって国中に偶像崇拝を蔓延らせ、自らもそれらの偶像に仕えた。
 このように信仰は、一人々々の事柄なのであり、それは遺伝することもなく、いつも人生において、一から始まるのであり、それが信仰における本質的なことでもある。つまり人の一生は、1冊の聖書全体が表している広大な救済史に対応しているとも言えるだろう。そこで、父ヒゼキヤが獲得した信仰は、その子マナセには、引き継がれることなく、またしてもユダは創造者なる神から離れてしまうこととなった。
 そこで神は。アッシリアを奮い立たせてユダを攻めさせられた。マナセは捕らえら、鎖につながれてバビロンへ連れて行かれた。しかし彼は、そこで受けた苦難を通して悔い改め、全能の神に立ち帰り、主に向かって叫び祈ると、神は彼の願いを聞き入れられ、彼をユダに連れ帰られた。その後マナセは、国中の偶像を取り除き、イスラエルの神の祭壇を築き直し、そこに感謝と和解の生け贄を捧げ、人々にイスラエルの神、主に仕えるように命じた。
 それにしても、このような背信と悔い改めの延々たる繰り返しは、いつまで続くのだろうか。しかしそれは、たぶん永遠に続くと思われる。人の寿命が有限である限り。その限られた一生が終わるたびに、その人が培った信仰は白紙に戻り、彼の後の人がその恩恵に与ることはない。たとえ彼が周到な教育制度を構築し、神を敬うための堅固な法律を制定したとしても、その後に何代かの世代を重ねるうちに、やがてその精神は忘れ去られ、再び混沌とした状況に回帰するに違いない。かつてのモーセの律法でさえ、守られなかったのだから。それは、まさに呪いであり、アダムの罪の継続である。この呪いから解放される道はないのだろうか。
 それがまさにイエス・キリストの恵みなのである。キリストは、自らの体で人類の罪に打ち勝ち、悪魔に勝利された。そして彼は、復活して永遠に生きておられるゆえに、私たちを常に導き、助け、罪を犯すことから永久に守ることがお出来になるのである。

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