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2008/12/22

過ぎ越しの祭り

歴代誌下 第30章
 ヒゼキヤは、かつて行われていたが今は行われなくなってしまった過ぎ越しの祭りを祝おうと思い立った。しかも、それをユダだけでなく、全イスラエルと共に祝おうと思ったのである。この彼の思いは、まさに地上のことではなく、高い高い天上のものであった。そうでなかったなら、なぜ一度は自分たちを攻撃し、捕虜にした敵国イスラエルと共に神を礼拝しようと考えられただろうか。ヒゼキヤの心は、神と結びついており、彼は、自分の思いではなく、ただ神の望まれることを意志したのであった。そして、全イスラエルに向けて遣いを出した。彼こそは、ヤロブアム以来、分裂していた神の民を霊的に一つにすることを実践した人であり、歴代誌における重要人物なのである。
 しかし、北イスラエル王国の中には、このヒゼキヤの思いを受け止めることのできるほどに高い思いを持つ者は少なく、彼らはヒゼキヤの遣いを嘲った。しかし、いくつかの氏族は、ユダと共にヒゼキヤの元に集まってきた。そして、祭りが盛大に行われることになった。それは、ソロモンの時代以来、行われたことのないようなものであった。
 ヒゼキヤは、民にこの祭りの意味を語った。それは、民の心が神の元に完全に帰ることであり、それにより、神もまた彼らの元に帰られること。そして、さらにそれにより、不信仰により、敵の手に渡され、捕らえ移されて行った同胞たちが再び自由の身となり、彼らの元に戻って来ることなのである。
 彼らは、このような祭りには慣れておらず、その規律も厳格に実行できなかったが、神はヒゼキヤの祈りにより、彼らを受け入れてくださった。そして、彼らは7日間神のために大いに喜び祝ったが、さらに7日を祭りに費やすことを喜びをもって決意し、それを実施したのであった。これらは、まことにダビデが主の前に踊ったような、そして、幕屋の前で絶えず讃美を捧げさせたことに匹敵する清い行いであり、民はそのような天的な思いをヒゼキヤとそして神と共に共有したのであった。

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信仰があれば教会に行かなくても良いのか

 キリストを信じ、洗礼を受けたばかりの熱心な人にとって、教会はもっぱら勉強と訓練の場であろう。そこで、彼が信仰的に成長するために教会は、まず必要なものである。しかし、やがて彼の信仰が成熟するにつれ、彼の教会への参加動機も少しずつ異なってくることが考えられる。例えば、彼の信仰の知識やレベルが教会の平均に達し、またそれを超えるに及び、彼はやがて教会の礼拝説教から啓発を受けることが以前よりは少なくなるということも起こり得るだろう。そこで彼がさらに信仰成長を続けるためには、教会以外に、例えば自分の部屋での聖書研究やデボーションが重要となってくるだろう。さらに彼は、教会においてさまざまな奉仕に携わるようになり、彼の中の教会参加の動機は、それまでの受動的なものから、より能動的なものへ、受けるという目的から、与えるという目的に転換して行くことになる。
 そこで彼が、この「与える」ということを彼の信仰成長にとって、必要と考えるかどうかが問題となるだろう。ところで、この「与える」ということが、実は彼がキリストから「受ける」ということであることを理解したとき、彼に教会がこれまで以上に「必要なもの」となり得るのである。なぜなら、彼は、本当は自分の信仰成長を、自分で実現することができないからである。信仰とは知識ではなく、生きることであり、それは実践なのである。そこで、この実践の場が彼に与えられないならば、彼の信仰成長は望むべくもない。信仰は、試されることにより評価される。何人も、信仰を床の間に飾ったままにすることは許されないのである。信仰は、それを働かせることにより、それを持っていることが神の前に表明されるのであり、信仰とはむしろ、この表明そのものなのである。
 だから、もし彼が教会へ行かず、そこに属さず、教会が彼にとって、献金箱みたいであったとしたら、彼は、間違いなく、成長しないクリスチャンと言えよう。そればかりか、実は彼は信仰を持っていないとすら言える。信仰とは、知識ではなく、実践なのだから。しかし、あるいは彼は、自分には信仰の実践の場としての社会があると言うかもしれない。しかしそのときは、彼はただ一人でそれに立ち向かわざるを得ないのであり、彼がそれに100%勝利できるとは言えないし、彼のために祈ってくれる者もないのは、大きなリスクである。それに加えて、彼の信仰実践の動機について考えて見れば、事態はもっとはっきりしてくる。そもそも信仰は、何のために与えられているのか。それは、彼の人生の幸福追求のためではない。そうではなく、それは、福音を宣べ伝えるためなのである。そして、福音を宣べ伝えよと言われた主イエスは、それを誰に対して言われたのか。教会に対してなのである。
 そこで、もしクリスチャンが、自分の霊的成長を期待するなら、彼は、定められた教会に属する必要がある。なぜなら、彼のキリストとの関係は、教会を通じてのみ存在するからである。そしてそれが、「教会はキリストの体」という意味なのである。

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