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2008/12/13

罪の可能性

歴代誌下 第26章
 アマツヤの後を継いで王となったウジヤは、神に従順で、主の目にかなうことを行った。彼は、神に才能を恵まれ、軍隊を統率し、新しい兵器を導入し、出て行ってペリシテ人と戦い、そこを征服して数々の町を建てた。彼は、さらに神に助けられて、他の民族をも征服したので、彼らはウジヤに貢ぎものを納めるようになった。ウジヤには、神の驚くべき知恵と助けが伴い、ますます勢力を増して、その名声は、エジプトに近い地方にまで届いた。
 ところがウジヤは、勢力を増すと共に思い上がって堕落し、神に背き始めた。彼は、主の神殿に入って香を焚こうとした。それを見た祭司アザルヤは、彼の前に立ちはだかり、制止しようとした。しかし、香炉を手にとっていたウジヤは、それを聞かずに祭司たちに怒りをぶつけ始めた。すると彼の額に突然、ライ病が発生した。それを見た祭司アザルヤは、直ちにウジヤにそこから立ち去るように指示し、彼も急いで出て行った。ウジヤは、死ぬときまで、ライ病に悩まされて、世と隔離された生活を送り、その亡骸は、諸王の墓には入れられなかった。なんという悲しい結末だろう。
 人が人生を神に従って生きようと志すとき、神は彼に、驚くべき助けを与えられる。神は、彼を豊かに恵み、彼にこの世界における多くの名声を与えられる。彼は、常に神と共に歩み、彼は人生における神の祝福の原則を理解する。神は、彼に大いなる知識を賜り、彼は、神と思いを一つにし、神の御心からそれることなく、大いなる働きを成す。しかし、ある日彼の中に、偽りが見い出されるようになる。そして、それはますます大きくなり、ついに彼の全体を神への反逆にさえ変えてしまうのである。
 ああ、なんということだろう。あんなに神に従順だったウジヤ王が、ついに神に背いてしまうとは。それゆえ、彼が神のために成した大いなる働きは、覚えられない。彼は、最初からなんの働きもしなかったかのように、罪人の一人に数えられる。いったい彼は、なぜ惑わされてしまったのか。その倒錯は、いったいどこからやって来たのか。
 それは、実は最初から彼の中にあったのだ。それは、罪の記憶である。彼の先祖アダムが罪を犯したという記憶である。それゆえ、彼の中に罪を犯す可能性が生じたのだ。なぜなら、彼の先祖アダムが罪を犯したからである。この可能性がある以上、彼が罪を犯すのは時間の問題であった。そして、それはついに現実となったのであった。
 私たちは、どうしたらこの罪の可能性から逃れられるのだろうか。私たちは、この世界を生きるときに、罪を犯してしまうという可能性にいつもさらされたままであり、ついにその生涯の中で、神に背いてしまう宿命にあるのだろうか。
 まさにその通りである。私たちは死ぬまで、この罪の誘惑から決して逃れることはできない。私たちは、時間の中で、必ずその誘惑に屈して罪を犯し、神に背いてしまうのである。なぜなら、私たちの状態は、アダムが罪を犯してから今に至るまで、何も変わっていないからである。
 しかし、たった一つ変わったことがある。それは、神の御子キリストが父なる神の元から、私たちが住むこの世界に来られたことである。これは、決して私たちの側の変化ではない。キリストが来られても、私たちには、変化はないのである。しかし、キリストに私たちが従って生きるなら話は別である。それには、私たちは自分に死ななければならない。私たちの心を治める王は、キリストでなければならない。自分が王である内は、実は何も変わっておらず、罪を犯す危険が常にそこにある。しかし、キリストが私の心の王国を治めてくださるなら、私は罪を犯して神に背く可能性から完全に開放されるのである。

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