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2008/12/03

アタルヤの死

歴代誌下 第23章
 ユダの王アハズヤの末子ヨアシュは、アタルヤの王子虐殺を逃れて6年の間、神殿の中にかくまわれていたが、7年目に祭司ヨヤダは、決心を固め、神に忠実な権力者たちを集めて彼らと契約を結んだ。彼は、レビ人を組織し、神殿でヨアシュの周りを固めさせると共に、王の即位式の準備に取り掛かった。
 祭司ヨヤダが遣わした者たちは、ユダの町々を行き巡り、レビ人とそこの氏族の長を連れてきて、彼らは王子と契約を結んだ。そして彼らは、神殿の入り口のところに王子を立たせ、頭に冠を被らせ、掟の書を渡してユダの王と宣言した。民の喜び歌う声を聞いて出てきたアタルヤは、この謀反に対して加勢を求めて叫んだが、すでに彼女に組みする者はなく、アタルヤは、祭司ヨヤダの指示により、神殿から離れたところに連れて行かれ、そこで殺されてしまった。そして、その後、町は平安になったと記されている。
 あまり気は進まないのだが、その、聖書の翻訳について、ここで少し言及しておきたい。ここに、23章21節に対する3種類の翻訳がある。
1.新改訳:「一般の人々はみな喜び、この町は平穏であった。彼らはアタルヤを剣にかけて殺したからである。」
2.口語訳:「国の民は皆喜んだ。町はアタリヤがつるぎで殺された後、穏やかであった。」
3.新共同訳:「こうして、国の民は皆喜び祝った。アタルヤが剣で殺された後、町は平穏であった。」
 上記において、口語訳と新共同訳は、同じような解釈をしており、これを読むと、「アタリヤが殺されたこと」が町が平安になった原因であると受け取れる。しかし、新改訳は、これらとは少し異なり、この訳からは、「彼らがアタルヤを殺した」ということが町が平安になった原因と受け取られてしまう。しかしこれは、非常に不自然な訳ではないだろうか。「それは、直訳からそう表現されるのであって、良く読めば、それによる結果、すなわちアタルヤが死んだことの方に主眼が置かれていることが分かる」と彼らは言うかも知れないが、それは詭弁である。彼らがアタルヤを殺したことは、すでに15節で一度語られているから、それを再び同じ表現で繰り返すことは、そのことすなわち「彼らがアタルヤを殺したこと」の強調を意味することになるからである。これではまるで、経験ない素人の訳のようにも見える。たぶんこのところは、「彼らがアタルヤを殺してから、町は平安になった」というのが、最も原文に近い訳なのではないだろうか。それを新改訳は、どのような原理原則により、上記のようなわけの分からない表現に訳出してしまうのだろうか。聞くところによると新改訳は、「直訳」をもっとうとしているという。しかし、日本語と語順が同じモンゴル語ならばいざ知らず、全く異なるヘブル語と日本語の間で、直訳はあり得ないであろう。そこで、この「直訳」というのは、どうも、「ある規則に則って、機械的に訳す」ということらしい。つまり、いわゆるトランスペアレントな訳ということで、翻訳の結果としての日本文を読んで、元のヘブル語原文ではどうなっていたのか、おおよそ見当がつくような訳ということらしい。そこで、上記のような、突拍子のない訳が随所に現れることになる。私が読む限り、新改訳の訳者は、聖書の意味するところを理解していないと思える。あのような訳からは、レビ記、ヨブ記、預言書等は、まったく意味の通らない書物となってしまうだろう。私は、新共同訳を読んで初めて、これらの書の意味を理解することができた。新改訳の翻訳者たちは、トランスペアレントな訳を提示しておいて、「説教者や注解者が説き明かすことによって、理解が深められるべきであり、ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的ではないのだ」と言う。しかし、そんなばかな話がどこにあるだろうか。つまりこれによれば、聖書は、それを通じて神が私たちの心に直接に語りかけて下さる書物ではないのであり、それを解釈する人を通してしか、私たちは神を知ることができないのである。これではまさに、エホバの証人の教えと同じではないだろうか。

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