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2008/11/27

湖畔での復活者の顕現

ヨハネの福音書(第21章1節~14節)
 ヨハネ福音書は、20章で一度終止符が打たれた後、再び付録のような21章が始まっている。
 この復活者の顕現物語は、終始謎に包まれている。20章において復活者の顕現と励まし、派遣命令を受け取った弟子たちが、なぜまたここで、ガリラヤまで漁をしに帰って行くのか。そこへイエスは、いつどこからやって来られたのか。イエスの指示による大漁の魚とイエスご自身が用意された朝食の魚との関係。弟子たちがイエスの姿に気づかないこと等々、全体が霧に包まれたようになっている。
 しかし、その霧の中に浮かび上がっているいくつかの描写があり、ブルトマンは、それらが決定的なものだと指摘する。見知らぬ男の指示がもたらした大漁により、その人が復活したキリストだと気付いたヨハネは「あれは主だっ」と叫んだ。しかし、ブルトマンによれば、それはいまだ霧の中のできごとであり、現代を生きる我々を復活のキリストに遭遇させるできごととはなり得ない。しかしここに、感覚においては鈍いが、感性においては、卓越している一人の男がいた。彼は、主だと聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。この男ペテロこそ、主を直接認識できない現代のキリスト者を代表する。私たちは、啓示すなわち「あれは主だっ」という号令により、間接的に主を認識する。しかし、私たちは、その啓示をもたらした天才的な感性を持つものに比べて劣っているのではない。もし私たちが、その啓示を受けて後、湖に飛び込むという行動をとるなら、私たちは、啓示をもたらした者よりも先に主にお会いすることになる。
 主イエスは、愛する弟子たちのために朝の食事を用意しておられた。私たちが行う業、企てることは、すべて主の御手の業であり、それらがなくても朝食はふるまわれる。しかし、主はペテロに、「いまとった魚を何匹か持ってきなさい」と命じられた。復活の主は、今日においても、弟子を選び、彼を用い、漁(伝道)に召し、その成果を求められるのである。
 復活の主とお会いするとは、そのようなことであり、それこそが教会なのである。

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