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2008/11/19

実装神学の諸段階(第三段階:歴史の実装)

 歴史は、その上にオブジェクトが配置されるものであり、情報技術においては、オブジェクトコンテナがこれに該当する。しかし、それが歴史としての機能を持つ必要があることから、従来のコンテナの概念を少し拡張する必要があるかもしれない。それは、純粋なオブジェクト指向とは、次の点で異なるからである。
 まず、それは永い時間の流れを実装しているからである。通常のオブジェクト指向のシステム環境では、オブジェクトが現実の今という時間の中で機能する。そこでは、各オブジェクトに与えられる制約条件の中で、すべてが偶発的に生起する。しかし、聖書の歴史においては、すべてを動かしているのは、神の摂理である。そこで、コンテナとしての歴史には、ただオブジェクトを格納するだけの機能の他に、正確に時を刻む機能が必要となる。これは、聖書上の異なる書における同時間の出来事の間の同期を取るためである。聖書において、別々の書に書かれていることでも、それは歴史上は同時に起こったことであり、この実装においては、そのように取り扱うべきだと思うからである。さらに、このコンテナは、天と地という二重構造を持ち、それぞれのコンテナに格納されるオブジェクト間で相互作用が想定されるのだが、常に上から下への作用が強い立場にあることになる。それは、多分に神話的な構図を持ちながらも、その相互作用が現実の歴史をシミュレートするように実装される必要がある。
 このような処理系においては、コンテナの設計において、その背景として、様々な神学の実装が可能となるように思われる。例えば、極端な場合、天というコンテナからの影響を無に等しいものとすると、それは自由主義神学となり、最大限に調整したものが、予定論となるのかもしれない。アルミニズム等は、その中間のどちらかと言えば自由主義神学に近い場所に位置づけられるだろう。しかし、この処理系をどのように調整しようとも、エホバの証人や仏教等の他宗教をシミュレートすることはできない。それは、この処理系のオブジェクトとは、まったく異なった定義のオブジェクトによらない限り、表現が不可能なのである。

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実装神学の諸段階(第二段階:聖書オブジェクトの設計)

 聖書オブジェクトを設計することは、聖書の登場人物の多様性から、それらに共通するところの人間存在の諸要素を列挙し、属性としてのそれらデータ項目の性質を決定すること。次に、町や建物、地域やそこの産物、食物等の特性を読み取り、その一般的な性質を記述する方法を考案すること。さらに、神殿とその中に収納された祭具類の構造を観察し、律法におけるそれらの用法の調査を通じて、それらの仕様、目的、機能を記述し、その律法及び天上の雛形との関係を定義すること。さらに、そのように定義された個々のオブジェクト間の相互作用や時間における経過モデル、歴史に介入される神や天使、悪の勢力との関係等々を規定することであり、これらには組織神学の研究成果が多いに参考になる。
 オブジェクト指向設計においては、定義はすべて外部定義である。つまり、外から見える状態のみを忠実に記述するのであり、内部構造の記述は必須ではない。そして、もし内部構造を記述するとしても、それもまた、そのさらに内部から見れば、あくまで外部定義でしかない。そのように、ちょうどたまねぎの皮をむくように、どこまで行っても外部定義に終始するのであり、最初から対象の完全な定義を意図しているのではなく、その総体としてのシステムが現実世界(これもまた外から眺めるのであるが)をシミュレートすることを追求するのである。というのは、我々は、聖書の世界の解明を目指しているのではなく(それは神に挑戦することであろう)、それをもって、現実存在、すなわち諸々の実存のあり方を尋ね求めようとしているのであり、これは、この世界を創造され、歴史を動かしておられる神の前にひざまづき、その語られることを聞き、その指示を過たずに実行に移すことを目指しているのである。
 例えば、アブラハムという「名前」を属性として持つオブジェクトは、また「年齢」という属性も持つ。この二つの属性は、共に不変のものではなく、名前は任意に変更可能であり、年齢は、時間の関数である。さらに聖書から抽出できる属性として、「信仰」がある。これをどう定義するかは、組織神学の研究成果に忠実でなければならない。すなわち、信仰は神の賜物であるということである。そこで、それは外部から与えられるものであり、個々のオブジェクトにおいて異なった重みを持つ。アブラハムは、信仰の父であるから、例えば、99という数字であり、これが人間における最大数である。しかし、100という数字を持つただ一つのオブジェクトがある。これがキリストである。また同様に、「良識」という属性や「罪」という属性も併せて内包することになるだろう。そのように、ただただ聖書の記述に忠実に、外部からオブジェクトの定義を積み重ねていくことは、さながら組織神学の深化に匹敵すると見られる。
 ここで、もう一つ忘れてはならないのは、現代の情報技術においては、オブジェクトは、上記のような諸属性ともう一つ「機能」を併せてカプセル化したものであることだ。オブジェクト機能の抽出は、聖書コーパスから種々の名詞を元にオブジェクト名を抽出するとき、それを主語とした「動詞」の抽出により機能の候補が列挙される。それを上記のように定義したオブジェクト属性との関連で、重要と思われるものをそのオブジェクトの機能として実装するのである。例えば、『アブラハムは、神を信じた。神は、それを彼の義と認められた』という文章から、アブラハムという人間オブジェクトの機能として、「信じる」という機能が抽出される。その機能の強さを決定するのは、そのオブジェクトの「信仰」という属性であり、外部から与えられる種々の作用や自ら抱える「罪」その他の諸属性との関係で、そのオブジェクトの行動が決定されることになるのである。この機能が出力するアブラハムの行動パターンは、聖書の記述を逸脱するものであってはならない。それがどの程度、制約の元におかれるべきかが聖書が啓示する人間存在の規定を表現するものとなるのであり、それがそのまま、現代を生きる我々の行動をも規定するものでもあるのである。

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実装神学の諸段階(第一段階:聖書オブジェクトの抽出)

 広大なインターネット空間上に存在している無秩序な文書の固まりは、「コーパス」と呼ばれる。実装神学の最初の段階は、聖書コーパスに含まれる固有名詞をそれが表すところの実体すなわちオブジェクトの名前として抽出、分類することである。これには、京都大学が開発し、オープンソースとして提供しているMeCabというシステムが利用できる。これは、形態素解析という機能を持ち、文章を部品に分解し、それぞれに「固有名詞」、「一般名詞」、「副詞」、「動詞」等、様々な属性を付加してくれる。これらの情報を基に、聖書から人物、民族、場所、時代、預言、系図、語り、等々をオブジェクトとして半自動的に抽出、分類することが可能だと思う。
Copus_2 半自動的という意味は、一つには、聖書の表現の多様性から見て、完璧な自動分類が可能とは思えないことと、もう一つは、聖書とそこから分類したオブジェクトを分離して取り扱うのではなく、むしろ分類の手法を確立することにより、リアルタイムな抽出システムとした方が応用性が高いと思われるからである。例えば、訳の異なる聖書コーパス同士の相互参照ということにも利用できるだろうから。
 その場合、オブジェクトの抽出に掛かる前に、まず聖書の各章各節に、時代や時間を分かる限りの正確さで、属性として付加しておく必要がある。そうしておいてからオブジェクトの抽出処理を行えば、抽出されるオブジェクトには、聖書の章節と時代、時間が自動的に付加されることになる。そして、抽出されたオブジェクト名で結果を並べ変えることにより、例えばある人物が、どの時代に生き、その生涯が聖書のどの部分に書かれているのかが自動的に分析されることになる。そのようにして、これまで時代区分の分析が行われた様々な聖書的概念の他にも、様々な対象に対して、同じような調査を行うことができ、さらにそれらの調査結果の対照が自由に、しかもダイナミックに行えるようになる。これだけでも心踊るようなことではないだろうか。

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クレイグリスト(Craiqslist)

 クレイグという人がサンフランシスコの街のローカルな情報交換のために開設した電子掲示板は、いまや世界300都市向けに専用サイトを公開し、一ヶ月に40億ページビューのアクセスを抱える巨大な仮想世界へと成長した。しかし、そのトップ画面は、まさにリストそのものであり、むだな装飾を一切そぎ落としたシンプルなヒューマンインターフェースは、どこかこのブログとも共通点が感じられる。それらが追求しているのは、実は仮想世界の背後にある広大な現実世界なのであり、かつてこのサイトが織りなす様々な人間模様が映画化されたことがそれを如実に物語っている。
 このクレイグリストのインターフェースを操作していて、その軽快さと単刀直入性にすがすがしささえ感じるのは、たぶん私だけではないだろう。それは、AppleとMicrosoftが進めてきたところのグラフィカルインターフェースが実は虚構であり、コンピュータから現実世界への接近であるどころか、それらが実は、人と人との間を隔てる垣根のような存在であることを示唆しているように思えるのだ。
 このクレイグリストのインターフェースこそ、私がこだわり続け、今後も追求し続けようとしているものに他ならない。その目指すところは、人の目からコンピュータが見えなくなることであり、そのためには、マンマシンインターフェースの派手なパフォーマンスなど無い方が良いのである。
 今日、コンピュータ処理の実体は、ますますヒューマンインターフェースから遠いところへ移されつつある。仮想化技術により、すでにハードウェアとソフトウェアが独立した存在になった今、デスクトップで見ている情報が、どこから送られてきたものなのかについては、まったく定かではない。これに対して、ヒューマンインターフェースは、その情報があたかもすぐそばで作られたかのような印象を与える性質を持っている。しかし、現代のコンピュータは、情報を提供する人とそれを使う人とをつなぐ役割を持つものであり、その意味で今日のヒューマンインターフェースは、虚構の道具となる可能性を内包している。しかも実際に、クライアント側のコンピュータ資源の多くがその為に費やされているのである。
 私は、特に聖書をコンピュータで取り扱う場合のように、場所を越え、時間を越えるコミュニケーションにおいては、このような現代のヒューマンインターフェースが、決して最適なものではないと思っている。そこで、何か違う種類のインターフェースが考案されるべきだと思う。そして、その新しい枝は、むしろこのクレイグリストのような、一見前近代的なマンマシンインターフェースから生え出るように思えてならないのだ。

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