« 2008年11月13日 | トップページ | 2008年11月18日 »

2008/11/15

弟子たちの前での復活者と懐疑者トマス

ヨハネの福音書(第20章19節~29節)

 ここには、2つの物語が対照的に記されている。突然のイエスの顕現により信じ、慰めと励ましを受ける弟子たちとその場所に居合わせず、懐疑するトマスの物語である。イエスは、トマスを叱責して言われた、「あなたは私を見たので信じたのか、見ずに信じる者は幸いである」と。しかし、「見ずに信じる者」とはいったい誰であろうか。そもそも見ずに信じた者があっただろうか。少なくともヨハネの福音書には、「見ずに信じる者」は出て来ないのであり、返ってマリアのように、見てもすぐには信じることができず、イエスに声をかけられて初めて信じたくらいなのである。その観点では、トマスもイエスの叱責の声により信じたのである。
 ブルトマンもこの件に言及して、「この物語は復活者に対する信仰は、目撃証人の発言に基づいて求められることを教えようとしているのだろうか」と言っている。しかし彼は続けて、こうも言っている。すなわち、「本当は復活者を見ることが初めて弟子たちをイエスが語った言葉を信じるように動かすのではなくて、この言葉はそれだけで彼らを納得させる力を持っているはずである」と。
 まことに、実際に主イエスを見た初代の弟子たちと、我々も含まれるところの主イエスの昇天後の弟子たちとの間の、この質的な差異は、現代の信仰者を迷わせるに十分な要素に思われる。そこでブルトマンは、私たちのイエスへの信仰の根拠を生前のイエスの訣別の言葉に置くのである。それは、実存主義的キリスト者としての彼の必然でもあり、また限界でもあると思う。まことに信仰を歴史的終末論的な出来事に対する人の決心的な態度と見る立場、すなわち実存主義神学においては、このような対処は必然的なものなのだろう。しかしここで、歴史的出来事とはなんだろうか。もしかしたら、それもやはり、ブルトマンがいま、ヨハネ福音書が拒否していると指摘し、自らも実存的神学者として拒否しているところの「目に見えるできごと」なのではないのだろうか。しかし、その目で見えるところの歴史的な出来事の中から、目に見えないところの主イエスの訣別の言葉が信仰者をして、今日も、また永遠に主イエスへの信仰に自らを留まらしむるのだとブルトマンは言いたいのだろう。その主イエスの言葉は、どこから来るのか。それは、ブルトマン自信も明確には認識していないようであるのだが、実は、実に見えない実存から来るのである。そして、その目に見えない実存が、今日も、今も、復活者イエスとして、私たちの前にリアルに相対しておられるとしたら。私たちは、それを信じる。主イエスは、復活して今私たちと共におられると。ブルトマンと共に、私は信じたい。私たちの人生を決定的に変革するところの訣別の言葉を語った主イエスは、今、その最後の晩餐における臨在と全く同じ臨在において、また、ユダヤ人たちを恐れて、固く戸を閉ざしていた部屋に集っていた弟子たちに現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われた、復活の主イエスの臨在と全く同じ臨在において、現代を生きる私たち信仰者に相対しておられるのだということを。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月13日 | トップページ | 2008年11月18日 »