« 2008年11月8日 | トップページ | 2008年11月11日 »

2008/11/09

キリストの恵み

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」 エペソ1:3

 キリストの恵みは、完全な恵みである。この恵みが覆うことのできない罪はないし、この恵みの他には、もはやどんな恵みも必要ではない。これは、すべてを満たし、私たちはそれにより完全な喜びと平安で満たされることができるのである。
 かつて信仰の人アブラハムは、神から大いなる恵みをいただき、その御約束の通りに、彼から海の砂、空の星のような子孫が生まれ出てきた。そして、それらの人々はアブラハムを信仰の父と呼んだ。また、モーセは神により、信仰を与えられ、それにより大いなる奇跡を行い、イスラエルの民をエジプトから導き出した。また、ダビデも神から与えられた信仰により、神に永遠に愛される者となり、キリストの父と呼ばれるまでになった。
 ああしかし、キリストにより私たちに与えられた恵みは、これらの信仰の偉人に与えられた恵みさえも遥かに及ばないほどの大きな恵みである。主イエスご自身が言い現されたように、女から生まれた者の内、洗礼者ヨハネよりも大きな者はこれまで起こらなかった。それゆえキリストは、彼から洗礼をお受けになったのである。しかし、主イエスは続けて言われた。「天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と。すなわち、私たち、主イエスを信じて天国に行くことを約束されている者は、かつてこの地上に生きた、どの信仰の偉人よりも大きい存在とされているのである。
 それゆえ、私たちは、自分に与えられた恵みの大きさをもう一度深く認識する必要がある。私たちは、時として、日常の仕事に疲れ、そんな自分を慰めるために何か気分転換をしたり、おいしいものを食べたりすることがある。もちろん、それは神から賜った恵みであり、信じて受ける分には、悪いものでないばかりか、神への感謝の機会となるのであれば、それは喜ばしいことでもある。しかし、もしそれが何かの事情により、与えられないかまたな適わないとしても、私たちには、それを上回る大きな慰めが約束されているのである。私たちがもし、欠乏の中にあるときに、なお、私たちと共にあるキリストの恵みを信じ、それに思いを馳せるならば、まさにそのときに、天が開かれて、あのかつてのマナのように、超自然的な喜びと賛美が私たちの心を満たすということが実際に起こるのである。それは、そのことを実践した者でなければ決して分からない。それは、キリストの言われた、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」という約束の成就なのである。人は、往々にして、このことが起こる前に、自分の力で恵みを獲得しようとし、それを得てしまう。それゆえ、この奇跡を経験することもまたない。しかし、聖書の約束をどこまでも信じ、待ち続ける者には、それが与えられるのである。それを経験するとき、その人のキリストとの関係は、180度転換する。彼には、キリストがどのようなお方なのかが理解される。そして彼は、その恵みのあまりの大きさの故に、もはやキリストから片時も離れることはなく、耐えざる感謝のうちに、つねにキリストに仕える者とされるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月8日 | トップページ | 2008年11月11日 »