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2008/11/08

復活日の朝

ヨハネの福音書(第20章1節~18節)

 イエスの復活は、謎に包まれている。ブルトマンは、この箇所に二つの異なるモチーフが互いに競合しつつ記述されていると言う。一つは、墓でのマグダラのマリアの物語、もう一つは、ペテロと愛弟子の物語である。
 ペテロと愛弟子は、共にイエスの葬られた墓へ向かって走ったが、最後の晩餐のときに、御胸に寄りかかるほど親密であった愛弟子の方が先に墓に到達した。しかし、彼は墓に入ることはせず、後から来た、イエスを3度知らないと言ったペテロの方が先に墓に入り、空になった墓の中を実際に見て、イエスの復活を信じた。また、朝早く墓に行ったマリアは、目の前に現れたイエスを墓の番人と勘違いした。しかし、イエスが声をかけられるとその人がイエスであることを悟った。これらのことは、私たちが復活のイエスを認識するのは、肉体的な手段以外の、ある何物かによることを暗示しているようである。
 これに関してブルトマンは、聖書の記述にささやかな疑問を呈している。すなわち、イエスがマリアに「私に触れるな」と言ったことに関して、「それゆえ復活物語には独特の玉虫色のもの、または矛盾するものが付着している。事実、肉体的な手による接触が禁じられるのに、肉体的な目で見ることはどうして許されるのだろうか」と。しかし、マルコの福音書には、「イエスは、別の姿で弟子たちにご自身を現された」とある。つまり、「目による認識」は、実は成されていないのである。それゆえマリアには、その人がイエスであることが分からなかったと見るべきだろう。
 イエスは弟子たちに、「私の父であり、あなた方の父である方、また私の神であり、あなた方の神である方のもとに私は上る」と告げた。これは、イエスが生前、すでに最後の晩餐のときに弟子たちに語っていたことなのであり、そこに大きな意味があるとブルトマンは言う、すなわち、「だから真の復活信仰とは、このことを信じ、それによって十字架の躓きを理解しつつ乗り越えることなのである。それは復活者に対する、把握可能で内世界的な示唆的証明を信じることではない」と。さらに、「『私の神のもとに、またあなたがたの神のもとに』と言われるとき、それによって新しい思想が付け加えられてはいない。しかし一方でこの文は、イエスの父は神である!神はイエスを通して彼の者たちの父になっている!という高揚した荘重さを獲得している」と。

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