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2008/10/30

イエスの十字架刑、死、埋葬

ヨハネの福音書(第19章16b節~37節)

 ブルトマンによれば、これらの箇所は、奇跡と預言に彩られている。実存主義者の彼がそのように考えるのである。
 イエスの架けられた十字架の上部には、「ユダヤ人の王イエス」と記されていた。それは、ピラトが書かせたものであり、同時に預言でもあるという。それは、3カ国語で書かれた、つまり多国語に翻訳された宣言だったのだから。それは、ピラトにとってみれば、ユダヤ人への仕返しであり、当てつけであり、またユダヤ人にとってみれば、神の救いの拒絶である。しかし、その最も中心的な意味は、実は別なところにあるとブルトマンは言う。それは、すなわち、十字架に架けられたイエスが実は、世の救い主なのであり、十字架刑自体がイエスの高挙、栄光化なのである。それが、この罪状書が持っている預言的な意味である。
 イエスを十字架に付けた兵士たちは、旧約聖書の預言通りに、彼の衣服を4人で分けあい、下着をくじ引きにした。キリストは、その死に際して、十字架の上から、相弟子ヨハネに向かって、ご自分の母の世話を依頼された。それは、「婦人よ、見よ、あなたの子です」、「見よ、あなたの母です」という、正に預言的な言葉によった。
 イエスは十字架上で、聖書が実現されるために「わたしは、渇く!」と叫ばれ、兵士が差し出した、酢いぶどう酒を受けて、「すべてが成し遂げられた」と言われた。人は、神のご計画の成就に無意識に関与することしかできない。「信仰」という積極的な無意識を通して関わりを持つことだけが許されているのである。しかし、主イエスは、そうではなかった。彼は、神のご計画に関与する者であると共に、その創造者自身であったのであり、それゆえ彼は、聖書が成就するために「わたしは、渇く!」と叫んだのである。
 イエスは、十字架上のこれらの言葉と共に、あっけなく死を遂げる。彼は、時至って必然的にこの世に生まれ、そして死ぬのも自分の言葉によったのである。彼は、この世界の創造主であり、人の生と死を支配しておられるお方なのである。そして、彼の死後もなお彼に関する預言は成就する。すなわち、「彼の骨は折られてはならない」の通りに、兵士たちは、彼がすでに死んでいるのをみて、彼の足を折るのをやめたのであった。
 しかし一人の兵士が、持っていた槍で、イエスのわき腹を突くと、すぐ血と水が流れ出た。ブルトマンは言う、「それは間違いなく奇跡を報告しようとしているし、またこの奇跡は間違いなく特定の意味をもっている。その意味は、洗礼と主の食事とのサクラメントは、十字架で死んだイエスの死に根拠をもっているということ以外のものではありえまい」と。
 最後に、イエスの埋葬について。これはブルトマンではなく、筆者の感想だが、ヨハネはそれまでとは違って、預言も奇跡も用いずに場面を展開させている。それは、あたかもこの部分だけは、人からイエスへの愛の贈り物としたかったかのようである。それまでユダヤ人を恐れ、弟子であることを隠していたようなアリマタヤのヨセフが登場し、イエスの遺体の引き取り方を願い出る、そして、ある夜、人目を忍んでイエスに会いに来たニコデモが、葬りのためにたくさんの香料を持ってきた。そして、それまで誰も使ったことのない、新しい墓が与えられた。しかしブルトマンは言う、「これこそまさに神の摂理である。・・・埋葬は、間に合わせの仕方ではなくて、完全な仕方で行われた」と。

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