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2008/09/30

第二の審問とその結果

ヨハネの福音書(第19章8節~12a節)

 イエスは、不気味な超人的な存在としてピラトの前に立っていた。ピラトは、イエスに問いかけた、「お前はどこから来たのか」と。この「どこから?」には、ユダヤの片田舎と共に、また星輝く天も想定されていたのである。それゆえにイエスは、不気味な存在であった。この「不気味な存在」は、躓きの一つの契機である。それは、ある点でピラトを越えている。人は、自分を越えた存在に遭遇するときに、二つの反応をする。すなわち、信じるか躓くかである。そして厳密には、この二つの反応は、同等なものではない。その意味は、躓きは必ず起こるものなのである。ブルトマンによれば、この躓きなくして信じるということは、起こり得ない。それは、自分を越えた存在との出会いそのものなのである。この躓きを越えて、その存在との親密な関係に入って行こうとする者には、信じるという行為が要求される。そして、それをあえて行う者は信じ、それを拒むものは、躓きの中に留まり続けるのである。
 ピラトが、自分を越えた者、すなわちイエスを信じれば、ピラトは、イエスに対する裁きにおいてもユダヤにおける政治においても、また彼自身の人生においても、神の御心を行う者となる。しかし、もし彼がイエスを信じなくとも、彼は神の御心を行わざるを得ない。神の御業の遂行を拒むことは、彼にはできない。それは、天地創造の昔からすでに決まっているのである。そこで、ピラトがどのように傲慢に、自分の思うままに振る舞おうとも、彼は神の御業の成就に、結果的に貢献することになる。信じる者は、神の栄光を現す聖なる器とされるが、ピラトのように、躓き、信じることのできない者は、神の意志を実行に移すための道具となるのであり、彼は自ら知らずして、神の御心を行うことになる。しかし、ブルトマンによれば、それでもピラトは罪ありとして裁かれるべき存在である。彼の行いもさることながら、彼の意志が悪いので、その結果としての行いも悪いものとして裁きを受けるのであり、まさにその彼の罪が、イエスを十字架刑に定めるのである。

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