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2008/09/25

イエスの鞭打ち、嘲弄、提示

ヨハネの福音書(第19章1節~7節)

 ピラトは、イエスを有罪としてしまった自分の過ちを何とか取り返したいと思った。そして、イエスを兵卒に渡して鞭打たせるということを行った。その意図は、ユダヤ人らの激情を和らげ、今となってはイエスは、彼らが恐れるような危険人物ではなく、か弱い惨めな一人の人間であることを示して、告発を思い留まらせようとしたのだとブルトマンは言う。そして、それは結局、失敗に終わるのだが、そのために主イエスは、無惨に鞭打たれ、嘲弄されたあげく、人々の前に連れ出され、見せ物にされた。そして、正にそのことにより、「言葉は肉体となった」ということの極端な帰結が、ピラトに対するイエスの要求の逆説となって、すさまじい像にまで具象化されているとブルトマンは言う。
 しかしピラトのやり方は、思惑とおりの結果を生まなかった。ユダヤ人たちは、ピラトの支配下にありながら、彼に対立し、彼に不当な判決の言い渡しを迫った。それは、ブルトマンによれば、単に国家の代表者としてのピラトとその統治下にある民との対立ではなく、国家と世との対立関係なのであり、またその背景には、国家権力と神的な力との関係があるという。
 「国家権力は、神によって立てられている」というのがブルトマンの信念である。しかし本当は、すべての権威は神によって立てられているのである。そして、権威は、それが行使される対象と対立する独立した存在なのであり、そのすべてが神によって立てられているのである。
 そこで、この福音書における、主にピラトがここで関わっている局面において、二つの、いや三つの権威が問題となる。一つはユダヤ人すなわちこの世に対する権威であり、この場合ピラトは、国家権力の代表として、神の側に立っているのである。それゆえ、ピラトがイエスをにせ預言者として裁かないことは、世に逆らうことになる。二つ目の権威は、イエスに対する審判者としての権威である。この場合も、ピラトは神の側に立って、イエスを裁くことになる。しかし、世が権力者に要求するのは、この場合、上記のような宗教的な判断とは対象的に、神の知恵をもって、この世界の諸問題を即時的に解決できるソロモン王のような権威なのである。そして、そのような裁きが、この世の権力者であるピラトの役割りであり、原理原則であり、また限界でもあったのだ。しかしピラトは、イエスの正体が分からず、確信を持って裁くことができなかった。彼には、このような問題に対処できるだけの知恵が与えられていなかったのだ。三つ目の権威は、神からピラト個人に与えられている権威であり、これは、万民に同じように与えられているもの、すなわち、自己の心の王国を支配する権威である。そして、ピラトの心の王国に対してイエスは、絶対的な権威を主張していたのだから、ピラトはそこを治める王として、イエスの権威を認めるか、それとも拒否するかの選択をする必要があった。しかしブルトマンによれば、上で述べたように、この世における権威とは、たとえそれが神によって立てられているものであっても、世がそれに対して要求するのは、せいぜいのところ、判断の即時性なのであり、それに対応できるものは、権威を行使する者が依拠すべき絶対なる存在への服従による裁きなのである。従ってそれはこの場合結局、「イエスが主張する神の国かこの世か」という「あれかこれか」の選択に帰結するのである。

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