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2008/09/22

イエスか、バラバか

ヨハネの福音書(第18章39節~40節)

 ピラトは、当時のユダヤを支配するローマ帝国の地方総督として、イエスを裁くために法廷に座していたはずであった。しかし実際は、被告人イエスが語った言葉が引き起こした終末論的なパラダイム転換により、いまや一人の被告として、人々の前に立たされていた。イエスは、真理を証しする者として、ご自身の創造物である全宇宙を従えて、ピラトを告発してこう言ったのである、「真理に属する人は皆、私の声に耳を傾ける」と。しかし彼は、耳を貸そうとしなかった。世の手前、その勇気がなかったのであった。
 ピラトは、イエスを政治犯として裁こうと思っていたが、それが不可能であることを知った。それならこの裁判は、自分の関わるようなものではない。そこで手を洗っていれば、ピラトは破局から逃れることもできただろう。しかし、続けてピラトが語った「それでは、やはり王なのか」は、イエスの語った「あなたは、わたしが王だと言った。その通り、私は王である」という答えにより、逃げ場のないものとなった。すなわちピラトは、イエスが王であるという可能性の存在を認めていた。そして、その王は、「真理を証しするためにこの世に来」て、いまピラトの前に立っているのである。ピラトは、さらにその上、真理に対して一瞥を向けてこう言った、「真理とは何か」と。
 いまやピラトは、イエスの前で、真理を求めるか、あるいは、ユダヤ人たちのようにそれを拒否するか、二つに一つの選択を迫られていた。もし彼が、この選択に対して、ローマの地方総督として、ふさわしい態度をとったなら、彼の威厳は保たれたであろう。しかし彼は、それに向かう勇気を持ち合わせていなかった。そして彼は、過ぎ越祭に囚人を一人解放するという週間を利用して、イエスを釈放しようと提案した。しかし彼は、その自分の言葉で、返ってイエスの罪状を確定してしまったこと、すなわち国家権力を世に自由に使わせてしまったことを知らなかった。しかしそれは、ユダヤ人たちがイエスの代わりにバラバの釈放を要求したときに明らかになるとともに、もはや取り消すことのできない判決となったのであっり、再びそれらのことは、イエスについて、聖書に書かれていた通りに起こったのであった。

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