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2008/09/10

大祭司の前でのイエスとペトロの否認

ヨハネの福音書(第18章12~27節)

 事態は、いよいよクライマックスへと近づいて行く。しかし、ゲッセマネの園で捕らえられ、裁判において大祭司から尋問を受けるイエスの様子は、ヨハネ福音書においては、共観福音書と比べて、かなりドライに描かれている。大祭司から弟子のことや教えのことについて尋ねられたイエスは、「自分は、世に向かって公然と語ってきたのだから、それを聞いた人々に尋ねればよい」というような答え方をした。ブルトマンによれば、これは福音書記者ヨハネの編集意図であり、彼がマタイ他2人の福音書記者たちとは異なる伝承資料を用いているのだという。そして、ユダヤ人との論争は、このヨハネ福音書においては、すでに前半で語りつくしてしまったので、もはやヨハネは、この裁判の場面では、それを取り上げる余地はなかったのだという。また、ペテロがイエスを知らないという場面構成も、彼の言葉がただ「違う」の一言であり、非常に淡々としていることにもヨハネの編集意図が読みとれるという。
 ブルトマンは、他にもヨハネの意図的な編集の痕跡を随所に見いだしている。例えば、その年の大祭司はカイファであると書かれているのに、イエスは、まずカイファの舅アンナスの前で尋問を受けている。そして、その場面では、アンナスもまた大祭司と呼ばれている。これは矛盾である。聖書を伝承の接ぎ合わせだと考える人たちは、このような箇所をその証拠として挙げる。しかし、福音書記者ともあろうヨハネが、そのような単純な間違えを犯すだろうか。そう考えることは、聖書の信憑性というよりも、キリストの教えを保存した使徒を含む原始教団そのものの信憑性を問われることなのである。
 それゆえ、アンナスが大祭司と呼ばれているのは、「大祭司経験者」という意味であろう。そのような立派な人に対して、失礼な答え方だと言って、下役は、イエスを平手で打ったとも考えられる。
 いずれにしても、事実に反しない範囲で、ヨハネ福音書における福音書記者ヨハネの編集意図を汲み取ることは、私には大切なことに思える。それは、共観福音書とヨハネを併せた、4つの福音書と真剣に向き合うことになると思うから。

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