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2008/09/05

イエスの逮捕

ヨハネの福音書(第18章1~11節)

 ブルトマンによれば、ヨハネ福音書には、福音記者ヨハネの意図的な編集が多分に含まれる。例えばこの箇所においては、共観福音書に掲載されているゲッセマネの園におけるイエスの最後の祈りの苦闘や弟子たちの居眠りに関する記事が割愛される一方で、捕吏たちがイエスの「私がそれである」という言葉を聞いて、後ずさりして地に倒れる記事が挿入されて、イエスの優越性を強調している点が揚げられる。ヨハネは、イエスを受難者としてではなく、すでに栄光を受けた者として描いているのである。
 その他にも、不自然に思えることとして、ローマ兵とユダヤ人が共同して行動していること、ローマ兵がイエスを逮捕後に、アントニオ城ではなく、サンヘドリンへ連行していること。また、さらに後になってアンナスの指示でカイファの元にも護送していること。これらは、指摘されればなるほど不自然に思えることではあるが、一般のクリスチャンや往々にして教職者もそれに気づかないことが多いのではないだろうか。そればかりか、もしそのような点を指摘するような者があれば、その意図に関わらず、その人を聖書の曲解者、神への反逆者、信仰的変人のように見なす人たちが多いように思う。しかし、聖書に対するそのような盲信こそ、むしろ、神の言葉を真剣に受け取ることへの拒否と言えないだろうか。そのような人たちは、聖書を自分への言葉として受け取ることをせず、御言葉に従って生きることもせず、ただそれを自分なりに理解して楽しむゲームのような信仰生活を送っているように思える。
 それでは、聖書は本当にブルトマンが言うように、ヨハネが様々な伝承資料を基に、グノーシス的な信仰意図に従って編集し、一度は完成したが、あるときその綴じ紐がほどけて、ばらばらになってしまったのを素人が拾い集めて無理矢理くっつけたような書物なのだろうか。私はそうは思わない。しかし確かにそのようにも見える部分があることを認めざるを得ないと思う。もし、そのことを否定するのなら、その人は、ブルトマンよりもたくさん聖書を研究しなければならないだろう。しかし、それは困難だろう。彼の研究の範囲やその取り組み姿勢には、まったく誰も脱帽せざるを得ないからである。しかし、それを認めた上で、ブルトマンには悪いが、私はあえて一つの言葉でこれを片づけることを好む。すなわち、「事実は、小説より奇なり」と。

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