« 2008年8月29日 | トップページ | 2008年9月5日 »

2008/09/03

受難と復活日

ヨハネの福音書(第18章1~20節)

 イエスは、十字架上で「完了した」と言われた。しかし御業は、世の初めにできあがっていた(ヘブル4:3)。そこでブルトマンは言う、「最後の晩餐のとき、すでにイエスは、栄光を受けた者として彼の者たちに語っていた」と。
 受難と復活を含む、救いの御業のすべては必然的であり、それらは起こるべくして起こった。しかも、ブルトマンによれば、受難も復活も、決して独立した要素ではなく、それらは、救済の御業の経過と結末に過ぎない。御業が現れ、イエスが栄光を受けるためにそれらの過程を経る必要があったのであり、重要なのは、できごととしての個々の要素やそれらの間のつながりではなく、全体としての御業の本質的意味なのである。
 ブルトマンは、この観点でヨハネ福音書は、一貫しているという。つまり、イエスはそこで受難者というには、あまりにも主体的に振る舞っている。イエスは、購いの御業の積極的な行為者であり、ゲッセマネの園における逮捕の際にも主導権を握って行為しており、またピラトの法廷においては、むしろ優越者である。ブルトマンは言う、「十字架は、『言葉は肉となった』で始まる出来事の最後を飾るものと理解されていて、単独の出来事として特別な救済的意義をもっていないとすれば、復活もまた、それが、たとえば宇宙的な出来事として、イエスの言葉がまだ果たしていない新しい何かを果たすことにその意義をもつのではない。それは、むしろすでに勝ち取られている世に対する主イエスの勝利の実例的提示である」と。
 そのように、イエスの受難は、共観福音書的には、苦難を経たどんでん返しの勝利であるが、ヨハネ福音書的には、イエスの従順の実証であり、同時に彼の栄光化の証明なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年8月29日 | トップページ | 2008年9月5日 »