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2008/08/29

共に生きる生活:研究のおわりに

 キリストは、時至り、天から降り、この地上において、購いの御業を完成された。それは、アダム以来失われていた人の栄光の回復である。
 神秘派は、天を見上げ、瞑想にふける。しかし、キリストの御業は、天ではなく、この地上で行われたのであり、アダムもこの地上に創造され、この地を耕すことを神から命じられたのだった。
 実存派は、個人の終末論的な回心に集中する。しかし、教会は回心によって生まれた者たちの群れであり、回心は、教会の始まりに過ぎない。
 福音派は、罪の赦しを述べ伝える。しかし、その自分が応々にして犯してしまう日常的な個々の罪に対しても、十字架の救いを同じように適用することしか成す術がなく、信仰のマンネリ化を招いてきた。
 聖霊派は、今も働く神の力と奇跡に感動し依り頼む。しかし、神の主権による、御力の現れの気ままさに悩みながら突き進むしかない。
 いったい何が足りなかったのか。キリスト教諸派が分かれて歩んできたことに問題があったのか。いや、彼らを統合しても、まだ埋まらない何かがそこにある。それは、いったい何なのか。それこそが、ボンヘッファーがここに示すところの「共に生きる生活」の旧くて新しい意味である。

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罪の告白と主の晩餐:喜びの食卓

 これは、何という美学であろうか。「共に生きる生活」という信徒にとって、もっとも身近なことが、いまこの小著が閉じられるに及び、主の晩餐というサクラメントに向けた、信仰の業にまで高められ、そこにアダム以来失われていた聖なる秩序が回復されようとは。
 キリストは、天から私たちの住む地上に降られ、ご自身を教会に与えられた。否、ご自身、教会になろうと意志されたのであった。教会とは、信徒の霊的な交わりであり、「共に生きる生活」である。それが、キリストの臨在により、聖なるものとして完成される。それは、まさにキリストの体とされているのである。主の晩餐の準備の意味についてボンヘッファーは、こう言い表している。すなわち、「各自自分を省みるべし」との勧めに対して、「自分の罪に対する不安と苦しみが大きくなるところ、ゆるしの確かさが求められるところ、そこに、イエスの御名において、お互いに兄弟としての罪の告白をするようにとの招きがなされる。イエスが、神をけがす者であるという非難を受けたこと、すなわちイエスが罪人の罪を赦されたこと、そのことは、イエス・キリストの現臨の力において、いまキリスト者の兄弟の交わりの中で起こっていることである」と。
 ここには、もはや私のような者が言及する余地は残っていない。ただボンヘッファーの詠う賛歌を引用するにとどめよう。
 「主の晩餐にあずかる日は、キリスト者の交わりにとっては、喜びの日である。神と兄弟とに対する和解を受けた心をもって、教会は、イエス・キリストのからだと血との賜物を受け、その賜物において、ゆるしと新しい生命と祝福とを受ける。神との、また人との新しい交わりが、教会に贈られる。聖晩餐の交わりは、キリスト者の交わり全般の完成である。教会に属するそれぞれのメンバーが、主の食卓において、からだと血とにあずかることによって一つとされるように、彼らは永遠に共にいるであろう。ここにおいて、交わりはその目標に到達する。ここで、キリストとその教会にある喜びは完全なものとなる。御言葉の下にあるキリスト者の共に生きる生活は、主の晩餐の礼典においてその完成に到達したのである。」

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罪の告白と主の晩餐:二つの危険

 罪の告白には、二つの危険が伴うとボンヘッファーは言う。その第一は、友の罪を軽く取り扱うこと、そして第二は、自分の罪を軽く取り扱うことである。これらは、共に「慣れ」とか「マンネリ化」により起こってくる。罪の告白は本来、ただその罪が赦されることを期待してなされるのであり、その行為自体が目的になっては本末転倒となる。しかし例えば、罪を告白するということは、キリスト者に与えられた価値ある行為であり、また勇気ある行いでもあることから、その行為自体が美化され、敬虔な業としてもてはやされる危険が存在するとボンヘッファーは言う。また一方で、罪の告白を聞くことは、その友の秘密を握ることであり、それにより自分が強い立場になり、友の上に君臨し始める危険があるのである。
 そこでボンヘッファーが勧めるのは、友の告白を聞く者は、自分でも友に対して罪の告白をすることである。もしこのことが、教会の中でうまく回るならば、そこにキリストの愛に満ちた豊かな信仰成長が期待できるであろうし、そうでないなら、私たちは、キリストの御名によって与えられている無尽蔵の富を無駄にするばかりか、警告されている苦難をその身に背負うことにさえなる。しかし、それをコントロールするのは誰だろうか。ボンヘッファーは、そこまでを述べてはいない。たぶん、教会の執事や牧師、長老、あるいは役員たちではなかろうか。しかし、それはもはや組織論、牧会論の領域に属し、この小著の範囲ではない。

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罪の告白と主の晩餐:だれに告白するのか

 「罪の告白」を提唱するボンヘッファーがここで、その相手の資質について言及しているのは、ちょっとほっとする。彼は、教会をカルトのようにではなく、また理想境のようにでもなく、問題・課題を抱える、生きた人間の集まりと捉えているのである。そして言う、「ただ十字架の下にいる兄弟だけが、わたしの罪の告白を聞くことができる」と。しかし彼は一方で、「イエスの十字架の下に生きる最も単純なキリスト者であっても、人間の罪に関する認識という点では、心理学者以上に鮮明である」という。そうなると、この章の主題の「だれに罪を告白するのか」ということだが、まず、告白した内容をプライバシーとして取り扱う配慮のある、信頼できる友が想定される。罪の告白は、罪を白日の下にさらけ出すことにより、その秘密の力を打ち破ることにあるのだが、それは、全教会員に見せしめとすることが目的ではなく、一人の信頼できる信仰の友を通じて、その介在の力を借りることにより、最深の意味で、神の前に罪を告白し、悔い改めることを得るためなのである。

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