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2008/08/27

罪の告白と主の晩餐:確かさへの解放

 ここで「確かさ」と言われているのは、主に私たちが「罪の赦し」を受け取る上での確かさのことである。
 それにしても、私たちは、自分の罪が再び赦されたことを、いかにして確信できるのあろうか。ここで罪の告白が神に対するものである場合には、それが信仰によって受け取るものであるゆえに、曖昧な意識状態の中で、ともするとそれが単なる妥協や思い込みであるようなこともあるいはあるかもしれない。しかし、たとえそうではあっても、そのとき私たちは、全宇宙の裁き主にして最後の審判者の前に自分の罪を持って行っているのであるから、それは本来、限りない恐れと緊張感を伴うはずなのである。しかしもしそれが安易に営まれているとしたなら、そこには、ここでボンヘッファーが言うところの正に「確かさ」が必要ということになろう。それは、むしろ兄弟に対して自分の罪を告白することにより実現されるのであり、この方が実際は、何倍も容易であるはずなのである。なぜなら、兄弟はあなたと同じ罪人であり、あなたの弱さを自分自身に持っているからである。そればかりではなく、その兄弟は、あなたの罪の告白を全教会を代表して聞くようにと神から委託を受けてあなたの前に立っているのであり、あなたはその兄弟の祈りを通して、具体的な罪の赦しの宣言を受け取ることができるのである。
 ここでボンヘッファーはあえて、兄弟に罪の告白をせずとも、神に直接告白して赦しを受ける人をも想定している。しかし彼は、実際は、兄弟に対して自分の罪を告白することを提唱しているのであり、それを教会の重要な営みと位置づけているのだ。なぜなら彼は、ルターを引き合いに出して、「兄弟の前での罪の告白を抜きにしては、キリスト者の生活をもはや考えることのできない人」と言っているのだから。

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罪の告白と主の晩餐:新しい生命への解放

 罪の告白はまた、新しい生命への通路となる。ちょうど洗礼において私たちの身に起こったことが、罪の告白において、また私たちに新しく与えられるのである。ここにおいては、恵みは再び個人的なレベルへと下降する。わたしたちは、教会という公的な場に属しながら、同時にそこから個人的な恵みを受け取るのである。私たち一人一人はキリストの体の一つの肢体であり、私たちは全体の利益のために奉仕しているのであるが、私たちが個人的な必要に至ったそのとき、キリストも教会も、いつでも私たちを個人として助け、哀れみ、恵むことが可能なのである。

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罪の告白と主の晩餐:十字架への解放

 「罪の告白において、十字架への通路が開かれる」とボンヘッファーは言う。兄弟の前に自分の罪を告白し、自己義認の思いに死んだ信仰者は、今度は目を転じて、教会の主である購い主キリストを仰ぎ見るのである。そのとき改めてキリストの前に罪を告白する必要はない。それは、赦しと慰めを受ける時なのである。兄弟の前に自分の罪を告白することは辛いことだが、それは、自ら罪が無いにも関わらず、全世界の罪のとがを受けられたキリストの苦しみには匹敵し得ない。キリストは、私たちの苦しみをその肉体と精神で経験されたゆえに、私たちの辛さをも思い計ることがおできになるのである。
 ボンヘッファーは言う、「もしわたしたちが、十字架が見出される場所、すなわち罪人の公然たる死へと赴くことを避けるなら、わたしたちはイエスの十字架を見出すことはできない。またもしわたしたちが、罪の告白における罪人の恥辱の死を身に受けることを恥じるなら、私たちは十字架を負うことを拒むのである」と。

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罪の告白と主の晩餐:交わりへの解放

 罪は、人を交わりから遠ざける。しかし、罪の告白において、交わりへの道が再び開かれる。しかし、そうなるためには、そこに戦いが必要となる。罪は、自ら言い表し難いゆえに、勇気が必要とされるのである。しかし、ひとたび告白され、白日の下にさらされるや、罪はその力を失い、自己義認の最後の砦が放棄される。その人は、自分のすべての悪を放棄し、自分の心を神に献げ、イエスと兄弟の交わりの中で、彼のすべての罪が赦されていることを見いだすのである。
 教会における信徒の交わりは、そのために与えられている。私たちが、自分を低くし、誇りを捨てて、この交わりの中に自分を献げることは、キリストの無尽蔵の恵みの中に自己を没入することになる。今日の教会は、このことを喪失してしまっているのではないだろうか。それは、礼拝が神のためというよりも、会衆のための配慮に満ち、そのすべての営みが牧会に向けて組織化されすぎていることによるように思われる。「互いに罪を告白し合う」ということは、生きた主の御体なる教会の重要な機能なのである。しかし、それはどこまで追求されねばならないのか。しかし、ボンヘッファーは付け加える。「罪の告白について、ここで言われているのは、ただふたりのキリスト者の間の罪の告白についてだけである。全教会との交わりをふたたび見いだすために、すべての教会員の前で罪の告白が必要とされるわけではない。私がその人の前で私の罪を告白し、そして私に対してその罪を赦す一人の兄弟との間に見いだす交わりにおいて、私にはすでに全教会の交わりが贈られているのである」と。

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