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2008/08/23

仕えること:権威の奉仕

 ボンヘッファーによれば、「権威」とは、主イエスに仕えることにより実現される教会の組織的な秩序と言えよう。そこで、この本来的な権威が真正なものであるかどうかは、その人が主イエスにどれだけ真実に仕えているかということによって決定されるという。彼が目指している教会の秩序の中には、人間的天分の魅力や霊的人格の輝くような特質等は何もない。
 しかし、そのようなものをすべて除き去ったスリムで純粋な教会は、正に無菌状態であり、俗的な部分の残っている信徒には、耐えられないものかもしれない。そこに魅力を見いだすには、聖書とそこに表された主イエスの御姿に徹底的に魅了されている必要があるだろう。ボンヘッファーの神学は、常にそれを想定し、それによる神の御旨の実現を目指すものなのであり、この神学を不完全な世界秩序への反骨等と解釈することは、本末転倒である。というのは、彼が言っているように、「権威の問題を考える時、あらゆる直接性がいかに有害なことであるかということ、また、権威はただ、すべての権威を持っておられる方に仕えることにおいてのみ成り立ちうるものであることを、真正の権威は知っている」からである。
 かくしてボンヘッファーは、教会の中から社会性を排除し、絵に描いた餅のような理想境を追求しているのだろうか。彼は、教会に主イエスにある聖さを求めるあまり、教会が万人に開かれたものであり、そこに常に新しい来会者があるということを見逃しているのだろうか。そうではないだろう。彼はむしろ、教会における権威に対する様々な誤解、誤用を考慮しているはずである。彼は自ら牧会経験を持っているのだから。そして、現実の教会においては、まさに彼が嫌うところの人間的美学的な権威がむしろ主役を演じていることも意識しているだろう。それは正に、キリストの弟子たちの中にもあり、初代教会依頼の主要課題であり続けたのだから。しかしそれでも、霊的な権威の原則を教会は決して見失ってはならないと彼は言うのである。そして、この真正な霊的権威、キリストと兄弟に真実な心で仕える精神こそ、キリストの教会において、すべての権威の上に建てられた最高の権威だということもまた現実なのである。

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