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2008/08/15

仕えること:御言葉の宣べ伝えという奉仕

 ボンヘッファーは、職務や時間や場所に束縛されない、人から人への自由な言葉は、説教壇から語られる、準備され、整えられた言葉よりも遙かに危険が伴う、緊張感のあるものだという。そしてそれには、「まず正しく聞くこと」が先行しなければならず、「活動的に他者を助けること」と矛盾してはならず、「他者の重荷を負うこと」から発せられたものである必要があると言う。しかし、そのような危険を乗り越えて、自分の力だけで言葉を語れる者がはたしているであろうか。むしろボンヘッファーはここで、無配慮な言葉に警告を発しているのだろう。というのは、そのような無配慮な言葉を受けることも、彼によれば正に兄弟の重荷を負うということに含まれるのだから。
 しかしここで、とりわけ注目すべきことは、そこで語られる言葉が「神の言葉と意志」である場合である。これについては、語るのを躊躇すべきではなく、兄弟への愛と神への真実のうちに、勇気を持って語られなければならない。どうしたら私たちにそれができるのか。ボンヘッファーは言う、「自分の力への断念は、まさに、神の言葉のみが兄弟に与えることができるあがないの助けを受けるための前提であり、確証である」と。神の言葉のみが私たちに真実を提示することができる。それは、神の裁きを通して行われる。そしてそれは、愛と配慮に満ちた「裁き」であり、神の杖は、私たちを守り導かれる。だから、もし私たちが兄弟に対して謙遜になるなら、彼は神の言葉に留まり続けることにより、兄弟を助けることができるというのである。

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