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2008/08/14

仕えること:重荷を負うという奉仕

 「互いに重荷を負い合いなさい」と聖書にあるが、それは、なにか他の大切な仕事の合間に成されるようなことではなく、正にこれこそが教会におけるメインテーマなのだとボンヘッファーは言う。なぜなら、教会がその御体であるところの主イエスが私たちの重荷を負って下さったからである。キリストは、人類の歴史において、そのことを成就され、私たちの教会生活においてもそのことを実践すべきことを命じられると共に、またそれが可能であることを約束されたのであった。それは、私たちがキリストの購いの意味を思い出すとともに、自分の生活において深く体験するためであり、そのようにして、今も生きて働き給うキリストの力に実際に与るためである。
 それでは、この「重荷」とは、具体的に何だろうか。ボンヘッファーによれば、それらはまず、「兄弟に自由を認めること」である。人が生活を共にするとき、それがどこにおいてであっても、必ず利害関係が生じる。もっとも、クリスチャンは、世の人よりもこの世界に執着することが少ないゆえに、利害関係もそれほど複雑ではないだろう。しかし、それでも代わりに、献身や奉仕に関する姿勢や考え方の違いが、兄弟の自由をいくばくか制限する方向に働くことがあり得るのである。
 次に「重荷」とは、「兄弟の罪深さ」である。私たちは、みな信徒としての完成途上にある。そこで、意識しない、そしてときには意識した罪深さにより、兄弟を傷つけてしまうことがあるが、私たちは、教会生活において、それらを許し、さらにその兄弟の信仰成長のために祈ることが求められているのである。
 以上がボンヘッファーが提示する、私たちが負うべき兄弟の重荷である。しかし、ここに彼は、私たちが自然に連想しがちな食料や物資、金銭等については何も触れていない。たぶんそれは、そういったものは、それらを兄弟に対して提供することが、いつでも本当に兄弟のためになり、その結果それが兄弟の重荷を負うことになるのかということが、その時々の事情に依存しているからなのだろう。そして、もし先に彼が提示した重荷をさえ負い合うことが出きるなら、その他の事柄についても自然に解決が与えられると考えているのだろう。

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