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2008/08/13

仕えること:活動的な助力という奉仕

 キリスト者は、みな神のために働き、神の役に立ちたいと思っている。それがキリスト者の献身でありまた謙遜でもある。しかし、その方法や形態に関してもそうかというと、これが必ずしもそうでないばかりか、返って大いなる傲慢の中にあることも少なくない。つまり彼は、自分のやり方で、自分の好きな時に、自分の好む人に奉仕をしたいのであり、その他については、御免被りたいのである。たとえそれが神の御心、願い、あるいは命令でさえあろうとも、それは彼には、関係ないことなのである。
 そこで、そのような人は、自分で奉仕を選別するのであり、そのようにして、神の目配せに応答する機会を往々にして逃すのである。しかし、その彼が逃してしまった奉仕こそ、神がその人にもっともして欲しかったものではなかったのか。というのは、他のことを差し置いて、神がそれをその人に示唆されたのだから。
 奉仕の本質は、その成果にではなく、やり方とタイミングにある。そして、私たちが神の役に立ちたいと思うなら、この二つから自分の考えを閉め出して、それらを神に委ねることが必要なのである。それこそが本当の謙遜であり、天に蓄えられる功績を生む奉仕となるのである。

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仕えること:聞くという奉仕

 「相手の言葉を聞くこと」は、その相手に対するすべての奉仕の始まりであり、これを飛び越えた奉仕は、押しつけの始まりである。そして、ボンヘッファーが言うように、とかくキリスト者は、聞くことよりも語ることの方が好きな傾向にある。それは、神から受けた知識に感動するゆえでもあろうが、むしろそれによって、自分も栄誉の一端に与ろうという恐ろしい考えであることもある。そのような人は、神の言葉を私物化することにより、それが自分からでたものであると錯覚するようになり、ついに神に耳を傾けることもしなくなってしまうだろうと彼は言う。つまり、兄弟に耳を傾けない人は、神にも耳を傾けないのである。逆に、兄弟の言うことに耳を傾ける者は、そのことにより、兄弟の内に住んでおられる主イエスに耳を傾けることになるのである。

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