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2008/08/12

主イエスを取り戻す

 主イエスの僕となるために、私たち信仰者は、もう一度主イエスを自分だけのお方として取り戻さなくてはならない。というのは、私たちは、教会に属するうちに、いつしか「自分だけの主イエス」という概念を失ってしまったからである。それでは主イエスは、誰のものなのか。教会が主イエスの体であり、私たちはその肢体なのである。つまり私たちは、一人で主イエスの御体を構成するのではなく、すべての信徒が集まって、初めて完全な主の御体が形成されるのである。
 いいだろうか、それゆえ、私たちは、「私だけの主イエス」という概念をもはや失ってしまっているのである。そこには、救われて初めて信仰告白したときのあの感動は、もはやない。教会生活の中で、私たちの意識は、利己主義的なものから共同体意識へと矯正され、お行儀の良いクリスチャンとして成長したことで得たものも多かったが、もしかしたら一番大切なものを失ってしまったのかもしれないのである。しかし、私たちが主イエスの僕となるためには、再びあの「私だけの主イエス」という思いを取り戻す必要がある。ちょうど、主イエスがご自身の御手で特別にペテロの足を洗われなかったなら、ペテロは主イエスと何の関係もなくなったであろうように、もしあなたが、「私だけの主イエス」という思いを持てないなら、あなたと主イエスは、また何の関係もないのである。
 それでは、どうしたら「私だけの主イエス」という思いをもう一度取り戻せるのか。どうしたら、主イエスは、もう一度私一人だけのものとなり、主イエスとのあの生きた交わりが取り戻され、私が「主よ」と呼びかけるとき、主が僕である私の名前を呼んでくださるというところまで回復されるのだろうか。その鍵は、実は私が主イエスにとって、その他大勢となってしまったところ、まさにそのところにあるのであり、そこにもう一度回帰する必要があるのである。つまり、私には兄弟姉妹と同様に、一つの体、一つの心が与えられている。それは、それだけでは、主イエスの御体を構成するたくさんの肢体の一つに過ぎない。しかし、聖書によれば、主イエスは、この私の体の中に、この私という一つの心の神殿の中に住んでおられるのである。私がそのことを信じるなら、私が使徒パウロのように、「生きるはキリスト」と告白し、自分の人生をすべて主イエスにささげ、信仰の人生を歩み始めるなら、主イエスは、そのような私の中に御臨在され、いつも私一人の主イエスでいてくださるということが実現するのである。そして、そのことが正に、教会が主イエスの御体であるという、さらに深い意味となるのである。ここにおいて、私は、主イエスの御体のたくさんの肢体の中の、本の一つ、一部分でありながら、その肢体の中に、主イエスご自身がすべて含まれて、御臨在され、私だけの主イエスであってくださるのである。

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