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2008/08/11

仕えること:謙虚という奉仕

 「謙虚」というものの本質について、ボンヘッファーはここで取り扱っているのである。なぜなら、世には、本質的でないところの謙虚が反乱しているからである。そして、ことこの「謙虚」という事柄に関しては、それが「本質的なものでない」ということが、また同時に致命的なことなのである。というのは、「謙虚さ」とはそれ自体が純粋なものであり、その中に何か少しでも不純なところがあれば、それこそ「偽物の謙虚さ」ということになるからである。それは、まさに悪魔が良く使う道具であり、エバを欺いた悪魔が、一見謙虚な言い方で彼女に近づいたことに好例を見ることができる。
 それでは「謙虚さ」とはなんであろうか。ボンヘッファーによれば、まず、自分自身をとるに足らない者と考えることである。アダムから受け継いだ、解決不可能な原罪をただキリストの十字架の購いにより赦された者として、自分自身としてはとるに足らない存在であるということである。しかしまた、それは同時に、絶大な価値を持つキリストの血が代価として支払われたということからは、ただ神の目から見たときに、この全宇宙よりも高価で尊い存在なのである。
 第二に、さらに進んで、「謙虚さ」とは、「自分自身を最大の罪人」と思うことである。しかし、自分にいくばくかの罪を認めても、「最大の罪人」と断定することがいかにして必要となるのか。ボンヘッファーによると、それはまさに、この本の主題であるところの「キリストの御体なる教会」の性質による。すなわち、兄弟への愛、許し、寛容と自分自身への正直さ、厳しさが、私をして、兄弟の罪をキリストにおいて覆い隠すと共に、自分の罪深さとそのような者に対するキリストの愛を日々深く悟らしめるからである。

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