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2008/08/06

仕えること

 かつて、キリストの弟子たちの間においても、往々にして「だれがいちばん偉いだろうか」という議論が湧き起こった。今日のキリスト者の集まりにおいてもまたそうであるとボンヘッファーは言う。それは、「自己義認を求める自然的人間としての戦いであり、彼はそのことを、他人を批判し、裁き、見下すことにより行使するのである」と。
 キリスト者の交わりの中にも、ときには悪魔が忍び込むことがある。ちょうど、アダムとエバがいたエデンの園に、悪魔が紛れ込んでいたように。それは、あのときもそうであったように、往々にして「最も礼儀正しい、あるいはまた、最も敬虔な装いをもってしても起こり得ること」である。しかしボンヘッファーは、「このような話題の種をキリスト者の交わりにまく者がだれであるかを、わたしたちは知っている」と言う。つまり、聖書の教えに忠実な者は、それを早い段階で見分けることができるのであり、彼によれば、その根絶の為に「ここで時を失ってはならない」のである。
 しかし、この章「仕えること」におけるボンヘッファーのアプローチは、なにかこう、ぎこちないものに感じられる。しかし、彼はむしろ、そのような勧めには、定評があるのではなかったのか。一部のクリスチャンたちは、彼の聖書解釈よりも、教会論、組織論、人間社会へのアプローチ、抵抗思想、等々を讃えてきたのではなかったか。しかし、この章を読む限り、彼のアプローチがどれほどの効果を生むか、疑わしく思われる。それは、彼が徹底的に聖書的に勧めを成しているからである。そこで、聖書に聞き従う者は、彼にも聞き従うであろう。しかし、聖書に従わない者は、彼の勧めも受け入れないばかりか、その勧めを愚かなことと見ることだろう。そして、たぶんそれは、彼の聖書解釈を彼の勧め以下に見る輩についてもまた、当てはまるに違いない。

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ひとりでいる日:試練の時

 ボンヘッファーは、キリスト者の日常生活を「試練の時」と呼ぶ。そして、「その時において、日ごろの黙想とキリスト者の交わりの正しさが試される」という。というのは、彼が日常を生きるのは、彼の中に培われた信仰によって生きるのだが、それを培うのは、他でもない「黙想とキリスト者の交わり」なのである。そしてまた、彼が一人で試練の中にあるとき与えられる神の助けもまた、彼の信仰の友の祈りの結果なのである。もし彼が、日ごろの黙想とキリスト者の交わりを、この試練の時を神に忠実に仕えるために過ごし、それが可能とされるように祈ってくれる友を持っているのなら、それらは、彼をこの世の危険や悪しき誘いから守り、困難の中においても彼を導き、神の御前に正しい道を力強く進み行かせるであろう。しかし、彼の黙想や交わりが、ただ彼の自己を満足させるためのものであり、また友に自己を誇るようなものであったなら、それらは、彼の試練の時に何の役にもたたないばかりか、彼は世の誘惑にたやすく屈し、その結果としての予期しない苦難と裁きを負うことになるだろう。そのように、ボンヘッファーによれば、ひとりでいるときとキリスト者の交わりのときとは、密接に結びついているのである。
 彼は言う、「交わりに支えられてひとりでいる者はさいわいである。ひとりでいることに支えられて交わりを持つ者はさいわいである。しかし、ひとりでいることの力と、交わりの力とは、ただ神の御言葉の力であり、それは、交わりにおいて生きるひとりひとりに向けられているのである」と。

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