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2008/08/04

ひとりでいる日:とりなし

 ひとりでいるときの3つ目の目的は「とりなし」であり、ボンヘッファーはこれを「すべてのキリスト者の共同生活の核心とも言うべき点」と呼ぶ。と言うのは、とりなしは、キリスト者の交わりを構成する一つの重要な要素だからである。キリスト者は、単に様々な背景や状況等により、相互に結びついているのではなく。神を仲立ちとして結びついているのだからである。そこで、兄弟のためにとりなしをするなら、それはすでに、そのとりなしの相手との関係に立ち入っていることなのである。それゆえ、ボンヘッファーが言うように、「それまではおそらく、わたしにとって無縁であり、耐え難いものであったその人の顔も、とりなしの祈りをすることによって、彼のためにキリストが死なれた兄弟の顔に変わる。彼もまた恵みを受けた罪人なのである」。
 この原則に従って、キリスト者がその一人の友のために祈り始めるとき、祈っている彼に、問題の核心が啓示され始める。聖書に、「すると、夜の幻によって、その秘密がダニエルに明かされた」とあるように、それは、彼が自分で考えるのではなく、天から啓示されるのである。その啓示は、彼に与えられたその知識によって、彼が何事かを成すように指示を与えるものであることもあるいはあるかも知れないが、多くの場合は、彼と彼の友にこれまでに与えられてきた神の恵みの大きさとその意味、そしてそれらに基づく、彼らに対する神のご計画を悟らせるものなのである。
 それゆえボンヘッファーは、ひとりの黙想の時のために、毎日一定の時間を取るべきことを勧める。そして、彼によれば、他のことと引き替えにそれを確保する権利を私たちは、神の前に持っているのである。

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ひとりでいる日:祈り

 「聖書を読み、思いをめぐらすことから、祈りへと導かれる」とボンヘッファーは言う。御言葉に基づく黙想から祈りへと導かれるのである。これほど麗しいことがあるだろうか。日常生活において、ときに祈りが困難に思われることがある。そうまでではなくても、祈るのに努力が必要なときがある。しかし、御言葉に基づく黙想から祈りへと導かれるのなら、それはごく自然に、神との麗しい対話の時に至るのである。
 ひとりでいるときの祈りは、教会の祈りとは異なる。そこでは、「交わりの祈りにおいては決して入り得ないようなことでも、神の前に、沈黙のうちに打ち明けることを許される」。
 しかし、この祈りのもっとも重要と思われる側面は、それが私たちの霊的な戦場であるということである。ここにおいて、私たちは、日常生活において吹き込まれた様々な信仰的な非常識と戦わなければならない。そしてここには、素手の自分、飾りを取り去った自分がいるので、ここで勝利することが真の勝利であり、ここで良き祈りをする者は、教会においても良き祈りを捧げることができる。しかしときには、そのような精神環境の中で、祈りに集中することの困難さのゆえに、落胆することもあるかもしれない。しかし、ボンヘッファーは言う、「ここでも私たちは、おどおどしたり、不安になったりしてはいけない。あるいは、この黙想の時間は、私たちにとって何の益にもならない、などと考えてはいけない。このような状況におかれたなら、私たちの思いを急激に引き戻したりしないで、平静な気持ちをもって、わたしたちの思いが繰り返しその方に向かって行こうとする人や出来事を、私たちの祈りの中にくみいれて、そのようにして忍耐をもって、ふたたび黙想の出発点に立ち帰って行くならば、そのことは時として、一つの助けを意味するのである」と。

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