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2008/07/18

ひとりでいる日:ひとりでいることと交わり

 これまでの章において、一貫して聖書の真理を私たちに向かって、「こうあるべき」とか「こういうもの」とかの表現ではなく、むしろそれを類まれな恵みとして、高らかに歌いあげてきたボンヘッファーが、この章に入ると、一転して「こうでなければならない」という表現に終始し始めるとは、いったいどうしたことだろう。彼は、これまで一貫して、聖書の言っていることのみを語り、そこに自分の考えを入れることをしなかった。しかし、ここに至って彼は、聖書の記述を越えて、執拗に自分の考えを提唱しているように見える。それはなぜだろうか。
 しかし良く考えてみよう。「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい」。ここで彼の言っていることは、余計なことだろうか。いや、決してそうではなく、それはむしろ、教会生活の秘訣である。しかし、注目すべきことは、それらは文字どおりには、聖書に記されてはいない。それゆえ、ボンヘッファーは、対応するみ言葉を引用することができずに、自らの言葉によって勧めをしているのだろう。
 ここでボンヘッファーの言っていることは、教会生活において、きわめて根元的かつ本質的なことである。教会において問題を起こす者は、実は常に「ひとりでいることのできない者」だったのであり、理想的な教会とは、「ひとり」という根元的な苦難と祝福により、育て上げられてきた成熟した信徒の有機的な集合体だからである。そして、その繊細をきわめる生きた霊的な統一体は、一人の未熟な信仰者の無神経な振る舞いにより、大きな浪費を強いられたり、ときとして危険にもさらされることになるからである。
 しかしそれでは、なぜそれらに対する警告と教え、すなわちボンヘッファーがここで語っているようなことが聖書に記されていないのだろうか。それには、たぶん二つの面があると思う。一つは、それが文字どおりには語られるべきではないということである。つまり、聖書は教会を成熟した信徒の集合体とは捉えていないのである。そうではなく、むしろ教会は、不完全な者たちの集まりであり、未熟な人、自分本意な人にも、そのいるべき場所が与えられており、そのような集団であることにより、むしろ外に開かれたものとなり、社会の隅々にまで福音を届ける働きが達成されるということも言えるだろう。
 もう一つの側面としては、それが聖書の中においてではなく、文字どおり、教会生活の中において語られることが意図されているということである。その意味では、ボンヘッファーがここで語っていることは、まことに当を得たことである。おそらく聖書は、彼のような神学者が教会に属することも想定していたのだろう。

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ひとりでいる日

 ボンヘッファーにとって、人間存在の本質は、「ひとり」ということであるように思える。神はかつて、「人が一人でいるのは良くない」と言われて、アダムの伴侶者エバを創造された。そのとき以来、「人は両親を離れ、二人は一体となる」と言われている。しかし一体となる者同士は、互いに一人なる存在であり、それが指し示しているところの「キリストと教会」もまた、無数の一人なる信徒の集合体なのである。つまり、二人の人間は、一体となった後も、一人の人間となるのではなく、二人のままで一体となるのである。従ってそれは、たゆまぬ努力を必要とすることであり、神の業への参与なのである。
 現代人は、この聖書の奥義を誤解しているとボンヘッファーは言う。それゆえ、ひとりでいることを恐れ、その反動として交わりを求める。つまり、一人であることの欠乏を補う目的で交わりを求めているのである。ボンヘッファーがここで、そのような人々に向かって、恐ろしい呪いとも思える言葉を投げかけているのはなぜだろうか。それは、現代社会の病理、歴史の中の悲惨きわまりない出来事、書き記されることなく忘れ去られて行った名も知られることのないひとりの人生の宇宙的な孤独と悲惨、それらすべての原因が、まさにこの「ひとりであること」への誤解であり、この人間存在における決定的で根元的な浄福の軽視とそこからの無責任な逃避に起因するからなのである。

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共にいる日:昼と夕べ

 この「共に生きる生活」という書の第二章「共にいる日」を「朝」に関する節で始めたボンヘッファーは、それを閉じるにあたり、「昼と夕べ」という、いかにもふさわしい内容でこれを締めくくるのである。
 ここに至って、ボンヘッファーが提示する「共にいる日」が私たちの前にその全体像を現す。しかしそれは、彼がなにか新しい、理想的な信徒生活を提唱するというのではないし、「これらを実現するために、今後こういうことをするようにしようよ」というような類のものでもない。つまり、ここで提示されている「聖なる一日」は、ボンヘッファーの発明や作品ではないのである。それでは、誰の作品なのか。そう、それは正に神の作品なのである。
 しかし、かつて誰が、本当にそのような「一日」の意味を知り、ボンヘッファーのように、ふさわしい表現でそれを私たちに示したことがあっただろうか。彼がそのことを成し得た秘密はなにか。それは彼が、ただひたすら神に忠実に、それを描写することに専念し、自分の発見や考え、思い入れ等々をそこに混ぜ合わせることをしなかったことによるのである。
 彼がここで提示している「一日」は、それ自体としては、決して特別に神聖なものではない。しかしボンヘッファーが、この章におけるように、一日の中のそれぞれの時々に対応した神の恵みを、聖書のみ言葉を引きながら語り始めるとき、突然に、それらが後から作られたのではなく、実は天地創造のときに、すでに特別に用意されていたのであったことが理解される。そこで私たちは、もはや罪の世をあえぎながら生きるのではない。私たちにとって、すべては見事に調和している。もちろん、この世界には時間というものがあり、一つの良い状態から次の良い状態への過渡期というものが発生する。この一見不完全で中途半端な状態は、ときとして危険と誘惑に満ち、私たちを落胆させるものであり得る。しかし、私たちには、そのような状態を渡りきるための信仰と従順が与えられている。それらを本来の仕方で正しく適用するなら、私たちは、いつも必ず勝利を得ることができ、そのことにより私たちは、主イエス・キリストの父なる神に感謝を捧げ、栄光を帰するのである。なぜなら、この世を生きるときに体験する私たちの弱さ、不完全さ、それらが私たちをして、常にイエス・キリストへの献身と父なる神への従順に向かわせるからである。

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