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2008/07/17

共にいる日:一日の働き

 人は、日々の糧を得るために、一日の多くの時間を労働に費やさなければならない。これがキリスト者には、大いなる矛盾にも思われることがある。せっかくキリストを信じて、永遠の命をいただいたのに、その実、日常生活においては、以前とまったく変わりなく、毎日の時間の大部分を生活費を得るためにあくせくと働かなければならないとは。むしろ信仰上は、本当は、献身とか、慈善団体に入るとか、なにかそういったフルタイムの奉仕が求められており、自分の生活が変わらないのは、なにか自分に非があるのではないかなどと考えてしまうことがあるかもしれない。しかしボンヘッファーは言う、「キリスト者の家の交わりは、多くの場合、働きの時間の間は、互いに分かれ分かれになる。祈ることと働くことは、二つの別のことである、祈りは、働くことによって妨げられてはならないし、働くこともまた、祈りによって妨げられるべきではない」と。
 神は天におられ、人は地にいる。この両者は、互いに明確に区別されることにより、初めて人は神に祈ることができる。それと同じように、労働が明確にこの世の業と認識されてこそ、人はその祝福のために神に祈ることができるのである。しかもそれによって、祈りが世俗的になるのではなく、むしろ労働が聖なるものとされるのである。
 労働の重荷とそれから来る物理的、時間的制限にさらされることにより、キリスト者は訓練され、事態に即して客観的に物事をみることができるようにされる。キリスト者にとって、この世界における労働は、彼をして自己中心性と自己追求からの清めへと向かわせる、神の手にある道具なのである。しかし、このようなことは、神を知らない人々には、決して起こり得ないことなのである。
 「働くこと」に対するこの認識への到達に伴い、ひとつの「突破」が起こるとボンヘッファーは言う。すなわち、「というのは、一日の働きの背後に神を見出すということ、そのことこそ、パウロが言っている絶えず祈りなさいということだからである。そこでキリスト者の祈りは、彼に定められた時間を越えて、いまや働きの時のただ中にまで入って行く。それにより、祈りは一日の全体を包むが、そこで働きは停滞するのではなく、むしろ祈りは働きを促進し、肯定し、それに真剣さと喜ばしさを与える。そこでキリスト者のすべての言葉、すべてのわざ、すべての働きは、祈りとなる」と。

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共にいる日:食卓の交わり

 この祝福された交わりは、信徒が聖書と歌と祈りからなる永遠の命のパンとしての礼拝によって養われ、強められた後に初めて可能となるものである。これらの基礎がすべて整った後に、初めて信徒が、その肉体的な生命のためにこの世のパンを神からいただくために、一緒に集うということが神からの賜物となるのである。
 私たちは、自分が生きているこの世界において、いかにして神に従い通すことができるのか。キリストは、そのことを私たちの内に実現するために、天の父から日ごとの食物を願い求める祈りを教え、また私たちのために自ら食卓を用意して下さった。それは、天国と地上との一つの接点であり、あのときの食卓にキリストが共におられ、私たちを祝福されたゆえに、今日私たちが集う食卓にもいつも、キリストがそこに臨在されることが確信されるのである。
 キリストは今日、どのように私たちの食卓に臨在されるのか。それについて、ボンヘッハーはここで、3つの姿を提示する。それらはまず、父と聖霊と共に、世界の主にして創造者なるお方としてであり、この方が、私たち教会にすべての賜物を分け与えられるのである。次にキリストはまた、今日における私たちの全目的であり、私たちの受ける賜物も、それを用いた様々な奉仕も、それらすべては、キリストのために存在しているのである。最後に、キリストは、信徒が集うところどこにでも臨在される偏在なるお方である。そして、ボンヘッファーが提示するこれらのキリストの姿は、意外にも彼の神学が強調するところの「受難者としての生前のキリストの姿」ではなく、「復活した全能者としての栄光の姿」であることは、注目すべきだろう。このことから、ボンヘッファーの神学は、単なる教会倫理やこの世的な勢力への抵抗などのような薄っぺらなものではなく、再び来たるべきキリスト待望の希望に満ちた全歴史的なものであることが理解される。
 ボンヘッファーは、「食卓の交わり」のキリストとの関係について上記のように考察した後で、今度は、それらを背景とした「食卓の交わり」の意味について言及する。それでは、「食卓の交わり」とは、どのようなものか。それはまず、「祝いのようなもの」である。「祝い」とは、彼によると「重要な事柄の想起」を目的としており、毎日の仕事からの解放としての、そして日々待ち望む喜びの日としての安息日を想起させるものである。次に、「食卓の交わり」は、「義務」を意味し、そこに集う者たちの分かち合いから生まれる天的な祝福を教える。そして最後にボンヘッファーは、彼流の壮麗な表現で、「食卓の交わり」の3つ目の意味について次のように説明する。すなわち、「食卓の交わりは、キリスト者に、彼らがこの世では、地上を旅するための過ぎ行くパンを食べるのであることを教える。しかし彼らは、このパンを互いに分け合うことによって、いつの日にかまた、父の家での過ぎ行くことのないパンを、共に受けることができるのである」と。

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