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2008/07/12

共にいる日:共に祈ること

 ボンヘッファーがここで主張しているように、聖書朗読や賛美がある程度受動的なものであったのに比べて、この「祈り」というものに委ねられている能動性は、それが神からの委任であるゆえに驚嘆に値する。そしてときに信徒は、この「祈り」という、礼拝の中の初めての困難を前にして後込みする。しかし、その人を助けるのは、兄弟姉妹の取りなしの祈りである。それは、共同体において、しばしば有効に働き、彼らの中に一つの群れ、キリストの御体としての連帯感を醸し出す。ここでボンヘッファーが夢見ている祈りの持つ有機的な機能と潜在能力、効果等は、その祈りを祈っている人の期待を上回って、そこに、共同体の根本的な目的としてのキリストの御臨在を招き入れる。それらのすべては、ここでは、決して異教徒のような呪術的なものではなく、神の全面的な導きと助けを伴った確かな約束なのである。
 もし私たちに祈りというものが与えられていなかったなら、私たちは、生きたキリストの体とは成り得なかっただろうし、私たちの信仰は、アブラハムに見られるような、無条件の盲従以上には成り得なかっただろう。しかしいま、私たちには、祈りが与えられており、しかもそれは、一人の祈りであると共に、共同体としての、すなわちキリストの御体としての祈りなのである。それは、私たちに神への盲従以上のことを可能とし、また要求する。というのは、いまや私たちは、キリストのゆえに、神に自分のためにお願いをすることができるし、また兄弟のためにもお願いをすることができるからである。この祈りという不可思議なものにより、私たちは、ある意味で従順を越えて、神の御心をさえ動かすことが許されている。それは、まさにキリストが私たちを下部ではなく、友と呼ばれ、新しい信仰の領域を示されたことの本質なのである。

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共にいる日:共に歌うこと

 ボンヘッファーが果たして、どれほどの音楽的な素質と知識を持っていたのか。しかし彼はここでも、賛美はこうあるべきということを権威を持って宣言する。そして私は、彼に共感する。
 私の教会では、一部の教団でワーシップソングと呼ばれている賛美を歌う。私は、礼拝の中の賛美タイムのリーダ一の一人であり、無数のソングの中から祈りの内に5曲を選択し、祈りを含んだ一つの賛美タイムを構成する。その選曲には、数時間以上を要することもあり、その準備は、自分の部屋の中で、神がこれらの曲をお与えくださったと確信するまで続く。すべては、神の栄光のためであり、ときには、結果的に自分があまり好きでないような曲を選曲してしまうこともよくある。それらの曲は、礼拝後に賛美チームで練習が行われ、その次の週に歌われることになる。しかしそれらは、予め知らされていない礼拝メッセージの聖書箇所と見事に調和し、感動的な賛美タイムとなることもしばしばである。いつぞやは、清い献身の思いを抱きながら、「雪より白く」と歌う曲を選曲した。期せずして、次の聖日の朝は、教会の窓の外に、白いものがちらついていた。このような賛美の捉え方は、ある種の教会の特色であり、ひとつの美しい形態だと思う。
 しかし、ボンヘッファーがここで提唱する斉唱(和音を廃した賛美)は、それ以上のものだと思う。神の栄光の前に、人は何をすることができるのか。実際には、人のどのような努力も神にふさわしいものとはなり得ない。しかし、それらの人々の群れが、キリストご自身の御体なる教会であるとしたら。問題は、その群れがいかにして純粋なキリストの御体となるかであり、ボンヘッファーの斉唱は、それをひたすら追求するものなのである。

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