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2008/07/10

共にいる日:聖書を朗読すること

 ボンヘッファーは、「聖書は、聖書日課以上のものであり、それはまた、日ごとの糧以上のものである」という。彼にとって、聖書は常に全体として、神の啓示の言葉であり、決して断片的な知識や処世訓の集合体なのではない。それは、「その内的関連の限りなさにおいて、旧約と新約、約束と成就、犠牲と律法、律法と福音、十字架と復活、信仰と従順、待つことと望むことの関係によって初めて、イエス・キリストについての十分な証しが理解される」と彼は言う。
 私は、聖書について、このような熱意を持って断言する人に初めて出会うことができた。しかし、彼がそのように主張する理由は、実は彼が聖書の国の住民だからである。事実、ボンヘッファーは、この世界にある彼の生家よりも、むしろ聖書の中に実際に住んでいたのであった。それゆえ、彼がその晩年を暗い牢獄で迎えるようなことになっても、彼は自分自信からは、そこから逃れ出ることを望まなかったのである。
 それでは、ここで私が名付けた「聖書の国の住人」とは何だろうか。それは、「自分の人生に必要なもの」を聖書の中に求めるのではなく、「自分の人生自体」を聖書の中に求める人である。別の言い方では、自分の人生の起源を聖書に置く人である。信仰深い人は、「聖書は真理であり、それゆえにそこに書かれていることは、また私たちの人生において、成就しなければならない」と考える。しかしボンヘッファーによれば、聖書に対するこのような姿勢にしても、いまだ「自分の人生に必要なものを聖書の中に求める」ことの範囲を出てはいない。つまり、そのような人はいまだ「聖書の国の住人ではない」のである。ボンヘッファーが主張することは、これをも遥かに超えている。すなわち彼は、こう主張してやまないのである、「ここで完全な逆転が起こるべきである。神の助けと現臨とは、わたしたちの生活の中で、初めて証明されなければならないのではなくて、それらは、イエス・キリストの生涯の中に、すでに証明されてしまっているのである。だから神が、イスラエルに対して、御子イエス・キリストにおいて何をされたかを知ることの方が、神が今日、わたしに対して何をなさろうとしておられるかを探求するよりも重要なことである。イエス・キリストが死なれたということの方が、わたしが死ぬということよりも重要なことであり、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたということが、わたしもまた終わりの日によみがえるであろうということの唯一の根拠なのである。わたしたちの救いは、わたしたちの外にある。わたしの生涯の歴史の中にではなく、ただイエス・キリストの歴史の中に、わたしは自分の救いを見出す。イエス・キリストのなかに、すなわちその受肉と十字架と復活のなかに、自分自身を見出す者だけが、神と共にあり、神もまたその人と共にいますのである」と。
 それゆえ、ボンヘッファーにとっても、僭越ながらこのブログを書いているわたしにとっても、聖書を読むことは、いつもまったく新しいことなのである。つまり、彼はこう主張してやまないのである、「聖書の各巻を連続して読んで行くことによって、聖書に聞こうとする者はみな、神が人間の救いのために、一度限り決定的に行動されたそのところに自分をおくようにと強いられる。わたしたちはそこで、かつてわたしたちの救いのために起こった出来事にあずかることができ、自分自身を忘れ、自分を捨てて、共に紅海を渡り、荒野を通って、ヨルダン川を渡って約束の地に入る。わたしたちは、イスラエルと共に疑いと不信仰におちいり、罰と悔い改めを通して、ふたたび神の助けと真実を経験する。そしてこれらすべては夢幻ではなくて、聖なる、神的な現実である。わたしたちは、自分の実存から引き離されて、地上における神の聖なる歴史の中へ移し入れられる。そこで神は、わたしたちに対して働きかけ、そして今日もなお、わたしたちが困窮と罪の中にある時に、怒りと恵みを通して、わたしたちに対して働いておられる。神がわたしたちの今日の生活の見守り手であり、参与者であることではなく、わたしたちが、聖なる歴史における神の行為に対し、地上におけるキリストの歴史に対して、心を傾けた聞き手となり、また参与者となることが重要なのであり、そしてわたしたちがそこにいる限りにおいて、神もまた今日、わたしたちと共におられるのである」と。

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