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2008/07/09

共にいる日:詩編の秘密

 ボンヘッファーは、詩編が神の言葉であると共に、教会に与えられた祈りであるという。しかし、「それは広くわたしたちに失われてしまっているので、詩編による祈りへの道を、わたしたちはようやくふたたび取り戻さなければならない」と彼は言う。そして、彼は今その道を提示するのである。その方法は、彼にとっては、特に目新しいものではないが、しかし、多くの人にとっては、まったく新しい聖書の読み方ということになるかもしれない。というのは、それは、聖書の言葉に何も付け加えず、またそこから何も割り引かずに、そこに書かれていることをありのままに受けとめることだからである。しかも詩編に関しては、ボンヘッファーは、それを自分自身の祈りとして祈ることを要求する。
 そのようにして、詩編を祈るとき、その人が上のことを忠実に守る限り、そこに大いなる矛盾を見いださざるを得ない。そこに、自分の祈りとは決してなり得ないような、無罪性、報復の決意、そしてあまりにも大きな苦難を見いだすからである。しかしもし、それらの矛盾のゆえに、詩編の言葉を薄めて解釈するようなことがあれば、その人は、すでにこの祈りへの道からそれてしまっているのである。
 それでは、この矛盾はどのように解決されるのか。しかし、ボンヘッファーの解き明かしは、ここでも徹底してオーソドックスなものである。というのは、彼の神学の斬新さは、聖書解釈よりもむしろ、そこへのアプローチの方にあるからである。すなわち、彼曰く、詩編の祈りを祈っているのは、他ならないイエス・キリストであるということである。そして、それゆえにそれはまた、キリストの体であるところの教会の祈りでもあるのである。
 ボンヘッファーは、詩編を祈る人の状態について、次のように語っている。「彼はまさに、キリストが彼のうちにあって祈っておられる限りにおいて祈る。彼はここで、自分の名によってではなく、イエス・キリストの名によって祈る。彼は、自分の心の自然な欲望から祈るのでなく、キリストの受肉の人間性から祈る。彼は、人間イエス・キリストの祈りに基づいて祈る。しかしそうすることによって、彼のそのような祈りのみが聞き届けられるという約束を見出したのである。キリストが、個々人の詩編の祈りと教会の詩編の祈りとを、天にある神の王座の前で共に祈られるゆえに、いやむしろ、祈る者はここでイエス・キリストの祈りに連なるゆえに、教会のひとりひとりの祈りは神の耳に届くのである。キリストが、彼らのとりなし手となってくださった」と。

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