« 2008年7月2日 | トップページ | 2008年7月4日 »

2008/07/03

交わりは、人間的でなく、霊的現実である

 「キリスト者の交わりは、ただキリストにのみ基づいており、この点において、他のすべての共同体と端的に異なっている」とボンヘッファーは言う。それは、人間存在の根底に根ざしている。人間は、本来一人であり、根本的には、ただキリストだけが彼の友だということである。そして、このキリストとの交わりを深め、継続し、発展させるために、他の人間的な交わりが仕えるべきなのである。
 ボンヘッファーは、彼独自の極めて繊細な思考をもって、霊的な事柄を人間的なものから区別する。「人間的な回心」、「人間的な隣人愛」、「人間的な愛」、それら人間的なものと霊的なそれらのものとの間の違いを感じ取り、それらを明確に区別するのである。そのときに彼が用いる武器は、「時間」である。時が経過し、状況が変化するときにも、変わらずに存続するものこそが霊的なものであると彼は言う。そして彼の認識力は、この時間の経過を先取りしているのである。聖書に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」とあるが、ボンヘッファーは、この信仰を、霊的なものと人間的なものとを区別するための聖なる道具として用いるのである。そして、彼は言う、「人間的なものは、それがどのように高尚なもの、理想的なもの、卓越したものであっても、それは究極的には、自己愛である」と。そして、その自己愛が生み出すものは、他者への強制であり、支配であり、虐げであり、また同時に従属であり、制約であり、喪失である。
 それに対して真の愛は、霊的なものであり、これらのものを決して生み出すことなく、人間存在に働きかけて、本来の栄えある姿に回復させ、可能性を開花させる。人間的なものが根こそぎにされた状態においてこそ、霊的な愛が始まる場所が生まれるのである。ボンヘッファーは主張する。「そのような霊的な愛は、人となって苦しみを受けられたイエス・キリストの中にのみ見出されるものである」と。そして、まさにこのことから、彼がその若き晩年に語った言葉、カール・バルトでさえそれを理解しなかったあの言葉が理解される。すなわち、「聖書は、人間を神の無力と苦難に向かわせる。苦しむ神だけが助けを与えることができる」と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年7月2日 | トップページ | 2008年7月4日 »