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2008/07/01

イエス・キリストを通しての、またイエス・キリストにある交わり

 「キリスト者の交わりは、イエス・キリストを通しての、またイエス・キリストにある交わりを意味する。そしてそれは、それ以上のものでも、またそれ以下のものでもない」とボンヘッファーは言う。キリスト者の群れが持つ豊かさも聖貧も、多様性も純潔も、すべては、ただイエス・キリストから来ると言うのである。そればかりか彼は、クリスチャンの交わりは、その目的から、方法、原因までもすべてイエス・キリストに他ならないというのである。
 近代社会は、人と人との交わりの中で、多くのものを生み出してきた。そして現代は、世界中を取り巻くインターネットにより、地球の裏側にいる人とも、瞬時にコミュニケーションができ、それがまた途方もない生産性を生み出し、社会経済を凌駕している。その影響力の前に、時としてキリスト教会もただ呆然とたたずむばかりのように思われる。しかしボンヘッファーは、そこには、何も新しく有益なものはないと言う。「キリスト者の死と生は、彼自身において決定されているのではなく、彼はその死と生を、ただ外から彼に来る言葉のうちに、すなわち彼に向けられる神の言葉のうちに見出すのである」。時代がどのように変わろうと、どのような高度なコミュニケーションの仕組みが現れようと、人間存在の根底は変わらない。キリスト者にとって、すべては外から来るのであり、自分の中から生み出されるものは何一つないとボンヘッファーは言うのである。かつてキリストは、天から降り来り、私たちのところに外から入って来られた。そして、彼の苦難と死と復活の後に、聖霊が外から来られて、私たちの心の内に住まわれるようになった。しかし、そうなった今も、私たちの内からは何一つ新たに生み出されるものはなく、外から来るみ言葉によって、私たちは養われて生きるのである。神は、そのためにキリスト者の群れを備えられた。この群れの中の羊同士の交わりを通して語り伝えられるみ言葉が私たちを養い育てるのである。それは、何か新しいものを生み出して、社会に貢献するためではなく、純粋にお互いを養い育てるためだけに存在する祝福なのであるとボンヘッファーは言うのである。

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