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2008/06/30

恵みとしての交わり

 キリスト教会において、例えば説教の題材として、「信徒の交わり」が取り上げられるとき、往々にしてそれが、「こうあるべきである」という薦めと、時にはせいぜい励ましの色合いであることが多いように思う。しかしボンヘッファーは、この著書「共に生きる生活」において、信徒の交わりを計り知れない天的な恵みとして、高らかに歌い上げるのである。しかも、それを他者への説得や説き伏せの表現としてではなく、彼の内からあふれ出る喜びの表現として、心からあふれ出るに任せるのである。
 それは、あたかも旧約聖書の歴史のすべてが、今日のキリスト者の交わりの恵みを実現するためであったとさえ言いたいかのようである。いや、彼の謳い上げる交わりへの讃歌をここで聴く者は誰しも、それが類稀で天的な悦楽でさえあることを実感せずにはいられないと思う。彼は言う、「だからキリストの死と終わりの日との間の時においては、もしキリスト者が、すでにここで、ほかのキリスト者との目に見える交わりに生きることを許されているとするならば、それは究極的な事柄が、恵みにおいてすでに先取りされているのだとも言うことができよう」と。
 この「交わり」が究極的な恵みであることは、どのようにして実感されるのか。それはまず、これまでに支払われた代償が、いかに大きいかということによる。旧約聖書のすべてと、教会時代全般にわたる殉教の歴史がその代償なのであり、その代償の報いもまた聖書の中に明らかに約束されているのである。ボンヘッファーは、この宇宙的な代償と恵みの体系をさながら天文学者のように浪漫ちっくに論いながら、それらの間のつながりの法則を天体の軌道や星座の配置のように、克明に私たちに示すのである。それにより、これまで示されなかったことに目が開かれる。天国は、いままさに私たちと共にあると。私たちは、どこから出てどこへ行こうとするのか。この「交わり」という日常的なこと、そこにこれほど多くの神秘的な事柄が凝縮されていようとは、誰が知っていただろうか。かつてヘーゲルは、この宇宙と全歴史の謎を解き明かすために弁証法を編み出した。それは、全宇宙と全時間を包み込む壮大な体系であった。しかし、それを学んだ人々のいったい何人が幸福となっただろうか。しかし、ここ、このごく日常的な実に小さな事柄、すなわち「キリスト者の交わり」の中に、この全宇宙を包み込む神秘と究極的な世界創造の意味が隠されていることを、ボンヘッファーは聖書の中に見出したのである。

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ボンヘッファー研究について

 ボンヘッファーは、かねてから研究してみたかった神学者の一人である。彼の明晰な聖書解釈もさることながら、それから生み出される斬新な思考、自分の信じたことを迷わずに行う実行力とその基礎である神への誠実さ。それらが彼の中で、キリスト者の賜物として結実していることを見たからであり、これをこそ私は、求めなければならないと思った。そして、彼の伝記と思想史を書いた本を一冊読んでみた。その中で、以前から私の内の大きな疑問であったことに一つの答えが与えられた。それは、聖書の中に、どうして使徒書簡のようなものが正典として掲げられているのかということである。もちろん使徒書簡には、きわめて重要な神学的内容が語られており、これ無くして新約聖書、いや聖書全体も成り立たない。しかし、使途書簡の中にはまた、ヤコブの手紙のように、ルターから藁の手紙として軽視されたものもある。そもそも、その内容には、挨拶や連絡事項、そして、フィレモンへの手紙に見られるような、美辞麗句を含めた遠まわしな強制のようなもの。パウロ独自の難解な聖書解釈、それを弁護するような表現(ペテロⅡ)もあり、このように一見不完全とも見えるような資料が、燦然と輝くモーセ五書やその他の歴史書、詩編、預言書等々と並んで、正典に入れられているのがどうしても不自然に思えたものだった。むしろそれらが、例えば神学書やカテキズムのような形にまで、なぜ整えられなかったのだろうかと。
 しかし、ボンヘッファーのとったキリスト論への集中とそれによる教会理解は、教会がキリストの御体であるということを強烈に私に思い起こさせた。教会こそがキリストの御体であり、キリストは天からこの世界に来られて、自ら教会と成ろうと欲せられたのである。そして、人間の弱さを身に纏われたように、復活後の栄光の内においても、教会の弱さをその身に纏うことを恥とされないのである。この世界に、問題や課題のない教会はおそらく存在しないだろう。しかしキリストは、それらの問題や課題が解決されたなら、教会に御臨在を現そうと言われたのではなく、問題、課題を抱えたままの教会にすでに臨在しておられるのである。また、キリスト者たちが、理想的な関係の中で集うときに、その交わりの中に共におられると言われたのではなく、「2人または3人が、彼の名によって集うところ」に、彼もまた共におられて、我らの交わりを導き助けられるのである。それゆえ、教会の実体を如実に表現した使徒書簡そのものが、正典とされるにふさわしいのであり、私たちキリスト教会は、このことを深い畏れをもって、いま再認識しなければならないだろう。
 そのようなわけで、ここにボンヘッファーの小さな大作「共に生きる生活」の研究を開始したい。これは、その名前の行儀良さかからは、とても想像できないほどのパワーを秘めた著作に思える。現代は、地球温暖化を始め、環境問題、経済問題、社会問題等々、様々な難題が露呈されてきており、その得体の知れない脅威の前に人間存在が根底から揺すぶられ、一人ひとりが自分に対しても、世界に対しても、そして場合によっては、神に対しても、「なぜ」と問いかけたくなるような時代であろう。このような終わりの時代にこそ、キリスト教界において、「教会とは何か?」ということが真剣に問われる必要があると思う。それは、そのまま宣教の姿勢となり、戦略ともなるからである。このブログで、そのことを含めて、キリストの御体としての教会について、そしてそこに属している自分について、もう一度考えてみたいと思う。

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