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2008/06/15

約束

ヨハネの福音書(第14章15~31節)

 ここの主題は、パラクレートス(聖霊)である。ブルトマンは、聖霊についてどう考えているのか。しかし、非神話化を提唱する彼が、意外にも「霊」という言葉を使う。彼は言う、「教会にとってイエスがそれであったものに霊がとって代わるのである」と。しかし、同時にそれは、「強力な身体的または心霊的な体験によって証明される呪術的な力でも、教会に対して力を行使し、教会は無責任にただ待っていさえすればよいような力でもない。むしろ霊は教会において言葉の宣教を推進する力である」と。そればかりでなく、教会は、そこに働く霊によって、自ら主イエスの体として実存するのである。つまりブルトマンが言うように、「宣教については教会に責任がある。その責任を果たすことによってだけ、教会は啓示の言葉としての言葉の力を体験する」のである。ブルトマンは、主イエスとその御体としての教会の関係をもう一度明確にしたいのである。そしてそれは、教会が約束されている終わりの日まで、自らの信仰を堅忍し、与えられた世界宣教の使命を全うするために必要なことである。すなわち、教会の源動力は、生前に主イエスが語った言葉であり、主イエスはそれをご自身の後の体としての教会を通して世に語ろうと意図されるのである。
 さて、このパラクレートス(聖霊)到来の約束は、ここに述べられている他の2つの約束、すなわち、「イエスの再来の約束」及び「神の到来の約束」と同値であるとブルトマンは言う、「まさに霊の到来において彼自身が到来する。まさに霊に担われた教会の言葉の宣教において彼自身が啓示者として働くのである」と。また彼は言う、「イエスは彼自身では何者でもない。彼と交わることを望み、それを許される者は、神自身の威厳の現臨在を確信しなければならない」と。これは、正にブルトマンが提唱する聖書の実存主義的な解釈である。すなわち、「啓示者である人間イエスに対するかつての信仰の関係は、教会時代における終末論的実存への移行を意図されていた」のである。

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