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2008/06/10

道と目標との一致

ヨハネの福音書(第14章5~14節)

 「私が道であり、真理であり、生命である。私を介してでなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と主イエスは言われた。
 しかしブルトマンの徹底した実存主義は、主イエスという人間自体を神と見ることはしない。彼は言う、「信仰者はイエスにおいてだけ神をもつ。すなわち神には直接的には到達できない。信仰は神秘体験ではなく、啓示によって規定された歴史的実存なのである」と。しかし彼はまた、「イエスは道であり、そして同時に真理と生命である」と言う。イエスは、真理に到達するための道であると共に、ご自身が真理そのものだと言うのである。その限りにおいてブルトマンは、聖書の言葉に忠実であり、正統的な信仰を守るために戦っているのである。そして、そのために彼は、非神話化のアプローチを導入する。その理由は、神話的な表象は、主イエスを神とは認めても、道とは認め得ないからである。そして、彼にとって神話的表象は、主イエスが「道」であることを認め得ないゆえではなく、主イエスが「道であり同時に真理」であることを認め得ないゆえに障害なのである。
 ブルトマンのこのアプローチにより福音信仰は、歴史を切り拓くダイナミズムを獲得する。彼は言う、「終末論的な実存が歴史の中で実現されねばならない。信じる実存とは時間の中で歴史的に実存することであるから。すでに与えられていた可能性はその都度未来として信仰者の前にあるのだ」と。彼によれば、信仰する実存は、同時に世に対する裁きであり、それがまた信仰者の証しであり、宿命でもある。
 さて、私たちがブルトマンの言う「信仰する実存」となるためには、一人一人が信仰の道を自分自身の足で歩まなければならない。何かまとまった教理を習得することによってではなく、主イエスとの終末論的な出会いから始めるのである。ときに、福音主義の信仰者も主イエスを神聖視するあまり、また福音の教理に忠実であろうとするあまり、自己の信仰生活の実践や人々の前での証しにおいて、福音のストーリーを無造作に復唱することがあり得る。この一旦自分を棚に上げるような行為の中に、実は異教的、神話的な表象が入り込んでいることをブルトマンは鋭く見抜き、警告する。そこでは、真理であり命そのものである主イエス以外のところに目的が設定されている疑いがある。彼は言う、「人は真理について問うために、彼のもとに来るのではなくて、真理である彼のもとに来るのである」と。神話から自由になることは、自己の信仰を徹底的に吟味し、曖昧さを取り除くことである。ただ主イエスの言葉の中に、道を、真理を、命を、生を、死を、癒しを、喜びを、約束を、平和を、戦いを、天使を、天国を、取り戻すことである。

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