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2008/06/07

信従の約束

ヨハネの福音書(第13章16~14章4節)

 「信従」がここのテーマである。このキリスト教における本質的な行為の基礎をいま主イエスは据えられるのである。しかし、この時点で、その意味を知る者はいない。「どこへ行かれるのですか」と問うペテロに、主イエスは言われた、「私が行くところにあなたがたは、今はついて来ることはできない。しかし、後でついて来ることになる」と。主イエスの後をついて行きたいと意志する彼らは、主イエスのやり方に従わねばならない。それは、「今は待つ」ということであり、そして「後になってからついて来る」ということである。
 主イエスが今彼らから去るということ、彼らが今このときには彼について行くことができないのは、主イエスがまず神のご栄光を現すためであり、主イエスが来られたのは、実にそのためであった。主イエスが歩まれる道の先に待っているのは十字架であり、弟子たちには、いまそれに耐える力はない。しかし、主イエスが十字架上でご栄光を受けられると、すべてが一変する。受難の道を歩んでおられた主イエスご自身が、弟子たちの道、真理、命となられるのである。主イエスは、教会の目標であり、そして同時に目標に到達するための唯一の道なのである。彼は、自らその道を歩み、それを切り拓き、「信従の約束」として弟子たちにそれを賜ったのである。
 それでは、世に残される教会は、この「信従の約束」をどのように受け取るべきだろうか。第一にそれは、ヒロイズムの行為ではない。世には、口では「信仰」と言いながらも、その実は、単なる自己実現に過ぎない行為も少なくない。世のヒロイズムとはそのように信従とは、ほど遠いものである。第二にそれは、調和を目指した行為でもない。それは実に「動揺」の中の行為なのである。ブルトマンは言う、「動揺させられることは、弟子にとってある意味でふさわしいのである」と。彼によれば、動揺は、世と啓示の衝突から生じ、その中でまさに、弟子の運命であるところの世との決裂が体験されるのである。そして、その状態に留まることをあえて成す者は、その動揺の中で、自分の無力の自覚を通して、主イエスの勝利を確信するのである。第三にそれは、悟りでもない。それは、実にただ待つことなのである。動揺の中で、信仰により主の御助けを待つことである。
 しかしそれはまた、信仰の目にとっては、第一に、決断である。それは、キルケゴールの言う「あれか・これか」の決断であり、ここに立つこと、立たされていることが、人間が精神であるところの最高の規定でもある。第二に、それは約束である。先の決断に、肯定を持って応答するものは、その迷いが一瞬のうちに晴れ、主イエスにより勝ち取られた神からの確信を受け取るのである。第三にそれは、希望である。父のもとへ凱旋された主イエスの「父の家には、多くの住まいがあり、私はそれを用意しに行く」との言葉は、信仰の孤独の中にある私たちのために特別に与えられるものである。

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