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2008/06/04

信仰者の未来

ヨハネの福音書(第16章12~33節)

 主イエスは、世に残される弟子たちに、決別の時の遺言として、やがて彼らが世の憎悪を受けるようになること、しかし彼らの存在そのものがまた同時に、世に対する終末論的な裁きともなるということを語られた。そして主イエスは、今度はいよいよ彼らに対して問いを発せられるのである。それは、彼らが「本当に終末論的な教会として存在して行こうと意志するか」という問いである。というのは、主イエスが語られた、いのちの御言葉は、この世から選び分かたれた新しい集団としての教会においてのみ現実となるからである。
 ブルトマンは言う、「信仰者は世から取り去られるのではなく、世において未来をもち、世がもたらし、要求するものに耐え抜かねばならない」と。しかし彼は続けて語る、「信仰者は、予知によってではなく信仰によって、未来を先取りする。イエスの言葉が真の啓示として、その都度新しく働いて、信仰者の未来を照らすのである」と。
 明らかにブルトマンは、十字架につけられた受肉者イエスではなく、復活した栄光者イエスを見ているのである。彼は言う、「啓示者は、受肉者としてではなく、栄光化された者として永遠に現臨しようとするからこそ、信仰者の前から消え失せたのである」と。ブルトマンが信じるイエスは、今私たちと共におられ、現代を私たちと共に生きて働かれるイエスである。そのお方は、私たちのために十字架上ですべてを成し遂げられたのだが、それは、彼が現代において私たちから決して離れることはないということにおいてである。つまり、主イエスは、十字架上で「完了した」と言われたのだが、それにより、後世の者たちは、何もやることがなくなったのではなく、主イエスから決して離れる心配がなくなったのであり、信仰の戦いは残っているのである。しかもこの戦いは、信仰者たちが天の御国へ入るのに必須のものなのである。
 この戦いとは、何なのか。それは、人生の現実から決して目を背けず、自分の力や知識等を頼りとして予め備えようとすることをあえて放棄し、その代わりに、自分と共におられる生ける主イエスの御助けのみを頼りに、己が人生を信仰によって生き抜くことである。人生において、信仰の実践において、時には何か劇的なできごとが起こり、それが神からのものと感じて信仰者を危機から救い、あるいは奮い立たせることがあるかもしれない。しかし、絶えず信仰者と共にあり、どんなときにも変わることなく彼を助け、励まし、慰めるのは、主イエスが語られた、永遠の命の御言葉なのである。
 ブルトマンは言う、「イエスの死に際しての弟子たちの史的状況は、絶えず繰り返される信仰者の状況を代表している。何度も繰り返し世が勝利するように見える。また何度も繰り返し信仰者はよろめいて、自分の故郷である世に避難所を求め、イエスを独り置き去りにする。しかし、本当は彼がイエスを世に放棄するのではない。返って彼はイエスを世に放棄された者と錯覚し、イエスに絶望することによって、自分自身を放棄するのである。イエスは、本当は孤独ではない。そればかりか、むしろ、たえず繰り返し生じる信仰者の不確かさは、目を自分から啓示者イエスへと転じるよう彼に教えるのである」と。

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