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2008/05/27

ダビデのような歩み

歴代誌下 第17章

 アサに代わって、その子ヨシャファテが王となった。彼は、ユダの砦の町のすべてに軍隊を配置し、ユダの地と父アサが占領したエフライムの町々に守備隊を置いた。「主はヨシャファテと共におられた。彼は、父祖ダビデが歩んだように歩んだ。」と歴代誌は記している。
 主は、心をご覧になる。父アサとその子ヨシャパテは、外見ではほとんど変わったところはなかっただろう。ヨシャパテも軍隊に頼り、町々の兵力を増強した。しかし、大切なところが異なっていたのである。それは、彼が「ダビデが歩んだように歩んだ」ことである。この「ダビデが歩んだように」とは、どういうことだろうか。それは、神に特別に愛されるということである。それは、再びどういうことであろうか。それは、「神のために犠牲を払う」ということである。ダビデは、かつて神の箱をダビデの街へ運び上るときに、神の箱を担ぐ者たちが6歩進むたびに、肥えた雄牛を犠牲として主にささげた。また彼は、神の箱の前で、絶えず賛美の供えものを演奏し続けさせた。また、主のために彼はおびただしい賛美の詩を認めた。彼は、戦いに明け暮れたが、それ以上の時を主と共に過ごした。そして、人生の大切な時間を主のためにささげ通したのであった。これこそ、神に喜ばれ、特別に愛されるにふさわしいことである。
 私たちは、忙しい毎日の中で、神に特別に愛されたいと思うなら、自分の大切な時間を主にささげ、主と共に過ごさなければならない。それが何になるのかと思えても、私たちにもっとも必要なこと、最大の財産、武器、知恵、そして、有り得べき最大の平安、幸福、堅実は、神ご自身を得ることである。ヨシャパテは、それを身を持って良く知っていた。それゆえに彼は、高官たちをユダの町々に遣わして、主の律法をすべての民に教えさせたのであった。

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失われたものの回復

 私たちは、無垢から現在の状態に墜ち来たった。だから、毎朝ふとんの中で目が覚めるやいなや、昨日やりかけた仕事のことや、今日の予定、趣味や娯楽のこと、それから朝食のこと等を考え始める。しかし、神の僕が朝、第一になすべきことは、神の前にひざまずき、礼拝することではないのか。そのようにして、神の御心を求め、それを行う知恵と力を神からいただくことではないのか。
 このことでは、私たちの心は、すでに曇らされ、私たちの心の霊的な領土の多くは、悪の軍勢により占領されてしまっている。もし私たちがそのような状態で出ていったとしても、そこにはもはや勝利を望むことはできないだろう。だから、私たちの毎日は、いつも失敗と失望の連続である。今日もまた、一人の友を救うことさえできず、敗北の内に一日を終えることになる。そしていつしか、人生とは、信仰生活とは、そのようなものだと思い込んでしまっている。今こそ私たちは、失ってしまったものたちを取り返さなければならない。
 しかし、そこで問題なのは、私たちは、自分が失ってしまったものが何なのかということすら知らないということである。しかし、私たちの現状を聖書の御言葉の約束と対比して見たとき、失われてしまったものの大きさに呆然とせざるを得ない。どうしたら私たちは、それらを取り戻すことができるのだろうか。
 しかし、ここに一つの方法がある。それは、私たち一人々々が、主イエスの僕となることである。それにより、失われていた私たちの力、霊的な賜物、神のすべての約束と祝福、愛と平和が、もう一度私たちに取り戻されるのである。なぜかというと、第一に、もし私たちが主イエスの僕ならば、私たちは、主イエスと共に悪の勢力と戦わなければならないからである。私たちが主イエスの僕となる時、主イエスの敵は、私たちをも敵として認識し、戦いを仕掛けてくるのであり、そのようにして、そこに自動的に戦いが始まるのである。第二に、もし私たちが主イエスの僕ならば、私たちは、主イエスにのみ仕えるようになる。主イエスの主権が僕となったあなたに啓示されるなら、あなたは、どんな誘惑にも屈しなくなり、ただひたすら、永遠に主イエスだけに仕えるものとされるのだ。そして第三に、主イエスの僕となった人は、自分を知るようになる。自分が何のために創造され、今何のために生かされているのか、主がどこに座しておられて、自分がどこに立っているのか。そして、どのような力と祝福に満たされていおり、どこへ行こうとしているのか。そういったことのすべてを知り、父なる神からすべてを相続したことを知るのである。

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生涯の目的

歴代誌下 第16章

 アサの治世第36年に、イスラエルの王バシャはユダに攻め上って来て、ラマに砦を築き、ユダの王アサの動きを封じようとした。アサは主の神殿と王宮の宝物庫から銀と金を取り出し、ダマスコにいるアラムの王ベン・ハダドに贈って支援を求めた。ベン・ハダドは、アサの願いを聞き入れ、それまで結んでいたバシャとの同盟を破棄し、配下の軍の長たちをイスラエルの町々に送り、イヨン、ダン、アベル・マイムおよびナフタリの町のすべての補給基地を攻略させた。バシャはこれを聞くと、ラマの構築をやめた。
 そのとき、先見者ハナニがアサ王のもとに来て言った。「あなたはアラム王を頼みとし、あなたの神、主を頼みとしなかった。 ・・・・・・ このことについてあなたは愚かだった。今後、あなたには戦争が続く」と。アサは、先見者のこの言葉を聞いて怒り、彼を獄に投じた。このことで彼に対して激しく怒ったからであり、また民の中のある者たちを虐待した。アサは、その治世の最後に足の病にかかり、その病は極めて重かった。しかしその病の中にあっても、彼は主を求めず、医者に頼った。
 神の試みは、人生の最後の最後までやってくる。神の目的は、いったい何なのだろうか。それは、彼をして、ご自身に完全に従わせることであり、そのようにして、彼を完全にご自身のものとすることなのであり、それこそが神の望まれること、そして同時に、彼にとって最高の幸福なのである。人の一生の目的は、アサのように、何か大きなことを成し遂げることではなく、彼自身の心が完全に神のものとなることなのである。

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正当な献げもの

歴代誌下 第15章

 そんなアサ王に神は、オベドの子アザルヤを通して語りかけられた。「アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。 ・・・・・ あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある」と。
 アサはこの言葉と預言者オデドの預言を聞いて勇気を得、ユダとベニヤミンの全土から、またエフライムの山地で攻め取った町々からも、忌むべき偶像を取り除き去り、主の前廊の前にある主の祭壇を新しくした。そのように、彼らの神、主が彼らと共におられるのを見て、イスラエルから多くの者がアサ王のもとに投降して来ることになった。そして、エルサレムに集った多くの者たちは、心を尽くし、魂を尽くして先祖の神、主を求め、子供も大人も、男も女も、イスラエルの神、主を求めない者はだれでも死刑に処せられるという契約を結んだ。彼らの中に大きな喜びがあり、主は彼らに御自分をお示しになり、周囲の者たちから彼らを守って、安らぎを与えられた。
 ああ、人はなぜこのように、主に対して何かをしてあげようなどと思ってしまうのだろうか。主の成して下さったことに対して、自分の行為で報いようなどと思ってしまうのだろうか。むしろ人間ができることは、ただただ、主に感謝と讃美を捧げることだけなのではないだろうか。ここに人間の高慢が顔を覗かせてくるのを見ることができる。ダビデは、そのようなことはしなかった。彼は、神に対して、讃美といけにえを捧げた。それは、神が彼らに与えられた、神の好意に報いる正しい方法だったのだ。ダビデは、神が彼に許された範囲を超えて、新しい方法で、讃美といけにえを捧げた。しかし、それはあくまで神に示された方法の中のことであった。そして、今日を生きる私たちにも、神は正当な感謝の方法を与えてくださっている。それは、自分の心と体を、生きた聖なる供え物としてお献げすることなのである。

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神との関係

歴代誌下 第14章

 レハベアムの後、王位についたその子アビヤは短命で、わずか3年後に王位をその子アサに譲らねばならなかった。しかし先代の王アビヤの信仰は、その子アサの人生に影響を与え、彼を主に従って道を歩む者とした。このアサについて歴代誌は、3章を費やして、その事績について記している。アサは、その神、主の目にかなう正しい良いことを行った。彼は異国の祭壇と聖なる高台を取り除き、石柱を倒し、アシュラ像を砕き、ユダの人々に先祖の神、主を求め、律法と戒めを実行するように命じた。こうして彼の統治の下で国は平穏であった。
 しかし、アサ王がユダに砦の町を次々と築き、盾と槍を携える兵士30万、小盾を携え、弓を引くベニヤミンの兵士28万人を抱えると、クシュ人ゼラが100万の軍隊と戦車300両を率いて攻めてきた。アサは、主により頼み、これと戦い、クシュ人は敗北を喫し、主とその陣営の前で打ち砕かれて倒れ、生き残った者は一人もいなかった。そして、アサがこの戦いで持ち帰った戦利品は極めて多かった。また彼は、ゲラルの周辺にあるすべての町をも打ち、それらから多くの物や家畜、羊やらくだを捕獲してエルサレムに戻った。
 アサの信仰は、強い者の信仰である。彼は、自分の考えで戦略を立て、それを実行に移す。そして、戦いの時、自分に力が必要なときには、神に助けを求める。彼は、自分に力があるのではなく、力は万軍の主から来ることを知っているからである。この自分の立てた戦略と神の助けが絶妙のバランスで調和しているときに、それに立ち向かえる者はいない。しかし、彼にかけているものが一つある。それは、ダビデの持っていた、神と心通わせるような関係、「わが僕ダビデ」と神に言わせる関係なのである。

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