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2008/05/14

世にある教会

ヨハネの福音書(第15章18節~第16章11節)

 主イエスは、間もなく去って行かれる。そして、この世に取り残された弟子たちを世の憎悪が襲う。主イエスは、そのことをあらかじめ弟子たちに告げておられたのであった。世はどうして弟子たちを憎むのか。それは、主イエスが彼らを世から連れ出し、ご自身と本質的に結び合わされたので、この運命の同一性もまたそこに生じたのである。すなわち、世は主イエスを憎み、十字架に架けた。それゆえ、世は弟子たち、すなわち教会をも主イエスのゆえに憎悪するのである。
 それでは、なにゆえに世は主イエスを憎んだのか。それは、主イエスが世の罪を糾弾されたからである。そして主イエスによれば、聖霊が来られるとき、彼は主イエスの代わりをして、世を責められる。そして、その結果世は、教会を憎悪するようになるのである。教会は、公認性を剥奪され、苦しい時代に突入することになる。そこには、殉教が待っているが、残された主イエスの言葉は、また彼らにこの受難の必然性を見る目を開かせ、同時にその躓きを克服する力をも与えるのである。なぜなら、主イエスは啓示者であったからである。そして、そのことは、主イエスが立ち去った後にこそ明らかになるのであり、それゆえに主イエスは立ち去らねばならないのである。しかし、主イエスが立ち去った後に来られる聖霊は、弟子たちに主イエスのすべて言葉を思い起こさせ、迫害に耐える力を与えるのである。
 ブルトマンは言う、「主イエスは、彼と直接に接した弟子たちにとって、彼が彼らから別れ、彼らの視線が彼の人間的な臨在から解放されることによって、初めて完全な意味で啓示者になるのであり、また、彼をその目で見たことのない人々にとっても、彼は史的想起によって史的現象、人間的な人物として再現されることによって啓示者となるのではない。それゆえ、啓示者としての主イエスに対する信仰の関係においては、前者が後者よりも勝っているということはない」と。ブルトマンにとっては、啓示は常に間接的なものである。啓示は、それが人間的、歴史的な領域で生起することにより、直接的なものであるという誤解を呼び起こすかも知れない。しかし、啓示者が去って行き、彼の者たちが試練と誘惑の中に取り残されるそのとき、彼の啓示が再び、歴史の時間を貫いて輝き出で、彼らの向かうべき未来を彼らに指し示すということが実際に起こるのである。そのとき啓示は「言葉」なのであり、言葉においてのみ、イエスは啓示者であったし、言葉においてのみ、彼はそれであり続けるであろう。
 そしてブルトマンは続けて語る、「教会がそもそも自己を構成する啓示の言葉を理解したとき、教会はたえず新しいゆえに同じものである、たえず同じ言葉として、それをたえず新しく理解し、かつ教会の現在において語らねばならないということを知らねばならないし、また知ることができるのである。だがまた教会は、そうすることができることによって、啓示をもち、未来から生きる真の終末論的な教会として自己を示すのである。また教会はそれによって自分の孤独と悲しみを克服した。そしてそれによってさらに教会にとっては、迫害の中でも慰めがあるのである。迫害の中でこそ世に対する勝利が与えられるからである」と。

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