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2008/05/09

訣別と遺言(まことのぶどうの木)

ヨハネの福音書(第15章1~17節)

 今まさに起ころうとしている主イエスと弟子たちの訣別、そして、それに際して主イエスが語った遺言。ブルトマンは、これらがまさにイエスの死を越えて教会を存続させる力なのだと言う。彼は、教会存続の力として、使徒行伝1章にあるような超状現象に着目しないし、死後40日間に渡って弟子たちに現れた主イエスの復活体にも言及しない。なぜなら、それらは、今日の私たちに対しては、容易に起こらない事柄だからである。もし今日、福音宣教が、そのような超自然的な現象に依り頼むようなことになれば、それこそ福音の豊かな内容の多くの部分が切り捨てられてしまうとブルトマンは考えるのだろう。それには、一理あると思う。というのは、今日の日本宣教の躍進を妨げている要素の中に、確かに、一部のクリスチャンたちが発する、まだ見ぬ信仰体験への憧れを込めた先取り的な表現があり、それが未信者に対して、ときには差別的に、またときには狂信的に響いてしまうのを感じることがあるからである。
 しかしブルトマンは言う、「神話は生命の水と生命のパンについてと同様に、生命の木についても夢見る。だがそれが夢見るものがここでは現実なのである」。彼が言おうとしているのは、聖書に書かれている神話の中で、唯一私たちが「それは現実だ」と言えるものは、「キリストがまことのぶどうの木だ」ということである。すなわち、聖書が主張する天地創造、悪魔と天の軍勢の戦い、キリストの行った奇跡、それら今日見ることの困難な現象のすべてが現実かどうかは別としても、「キリストがまことのぶどうの木だ」という神話的表現こそは、正真正銘の現実だというのである。
 ブルトマンが提唱する非神話化のアプローチは、一方で、聖書の神話的と見える部分を「これはおとぎ話だ」として切り捨てるのだが、また一方で、大胆にも「この神話的表現が現実であり、私たちの日常こそが偽物である」とあえて断言するのである。そして、ブルトマンの力点は、実に後者の方に置かれており、実際、彼にとっては、前者がおとぎ話であろうと、現実であろうとかまわない。ブルトマンは、後者の現実性を主張するために立ち上がったのである。
 その神話、日常よりもさらに現実であるとブルトマンが主張する聖書の神話的表現は語る、「わたしのうちにとどまりなさい」と。「とどまる」とは、「信仰の姿勢にあくまでとどまる」ことであり、キリストの愛の奉仕を受け、それに固執しながらも、彼の弟子となることにより、信仰者の内に働く彼の力を受けて実を結び、そのことにより、彼に栄光が帰されることである。そして、主イエスと彼を信じるものたちのこのように有機的なつながり、それはまさにぶどうの木とその枝の間のつながりに対比されるべきものなのであるが、それがかの神話的な表現に値するほどの美しさと力強さ、そして瑞々しさにおいて現臨するまさにそのために、主イエスは今、弟子たちの中から去って行こうとしているとブルトマンは言うのである。

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