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2008/04/30

復活のキリストを仰ぎ見る

 キリストは、十字架で私たちの罪を購って下さった。そして、死んでから三日目に復活し、天に戻って行かれた。これらの受難のストーリーは、繰り返しキリスト教会で語られることにより、その内容が空しいものとされたとキルケゴールは指摘した。確かに、この救いのストーリーを聞きながら、それに応答することがいつまでも成されないなら、その内容は空しいものとなり果ててしまうに違いない。なぜなら、この救いのストーリーは、それを聞く者にまさに応答を要求しているのだから。その応答とは、それを聞いた者が、ただ感謝する状態に留まるだけでなく、自らキリストの僕となることなのである。
 しかしこれまでに、いったいどれだけのキリスト教会で、このことが勧められてきただろうか。私の見たところでは、どの教会においても、ただただ救いの恵みを感謝して受けることのみが語られるばかりで、キリストの僕となることについては、それを語ることがあたかも禁じられているかのように、説教者も口を閉ざしてしまっているかのようなのだ。
 しかし、キリストと日々交わり、彼に従おうと願う者は、次ようなのことに思いを馳せるに違いない。すなわち、キリストは復活して、いま何をしておられるのか。キリストは、いまどのようなお姿なのか、ということである。それに対して、十字架に架かったお姿のキリストを思い浮かべることは、私たちの救いを確認することにはなっても、そこから私がキリストに従う力は出てこない。というのは、キリスト御自身が十字架に架けられた状態のままである限り、私はキリストに感謝し、彼に忠誠を誓うことはできても、彼と共に戦うことはできないからである。そのように、私の心の中のキリストが十字架に架けられたままであるなら、私の信仰の戦いは、私自身の決心と孤独な戦いの域を出ないものとなる。その結果、信仰の歩みを進めるのは、私たちの側の努力となってしまうのである。そこで、十字架の福音により、私たちは死人の中から立ち上がることはできても、そこから歩き出すためには、キリストの復活の力を必要とするのである。死から復活された栄光の力に満ちたキリストの御姿こそが、私をして、信仰の戦いを勇ましく進み行かせるのである。そこでは、キリストが救いの象徴ではなく、実際に共に戦われるお方となられるからである。
 しからば、復活したキリストの姿はどのようにして信仰者に啓示されるのだろうか。私たちは、キリストが王の王にして万軍の主であることをしっかりと心に刻む必要がある。そして、このことをしっかりと認識した者は、その当然の帰結として、次のことに思い当たるはずである。それは、キリストが王であり、万軍の主であるかぎり、その御姿を仰ぐことができるのは、王と戦いを共にしている兵卒であり、勇士のみであるということである。かつて軍の先頭に立って出入りしていたダビデの雄姿を仰ぐことができたのは、彼と共に戦場へ出向いた兵士たちだけであった。家にいて、日常的な生活を送っていたイスラエル人は、凱旋したダビデの姿を見ることはできても、敵を打ち負かす、力に満ちたダビデの雄姿を垣間見ることができた者はいなかった。王であり万軍の主であるダビデの雄姿を仰ぐためには、どうしても戦場へ出て行くことが必要なのであった。現代を生きる私たちも同じである。神の民の先頭に立って進み行かれるキリストの雄姿を仰ぐことができるためには、私たちは自ら戦場に身を置かなければならない。私たちは、日常の安穏とした生活を離れ、主の兵士とならなければならないのである。このことに関して、今日、キリスト者の目は曇らされ、その感覚は麻痺させられているとしか思えない。というのは、誰もそのことに気づいていないように思われるからである。そして、毎週の礼拝においては、ただただキリストのありがたい救いのことだけが繰り返し繰り返し何度も語られ、力ある者たちもうんざりしながら帰路に着くのが常なのではないか。
 私たちは、今こそ、復活された王の王、万軍の主なるキリストの雄姿を心に映していただくために、自らキリストの僕となり、すべてを捨て、自分の十字架を負って、戦場へ出て行かなければならないのである。

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