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2008/04/30

聖別

 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところもない」とキリストは言われた。これがキリストの僕の身分である。キリストご自身が、そのような状況に身を置いておられたのである。しかし、使徒パウロが言ったように、そのような状態の中にあっても、私たちは、人に十分与えることができるほど富んでいることが可能なのである。もし私たちが、自らキリストの僕の状態に身を置くならば、野原で5000人を養うことさえ可能なのである。なぜなら、それを行われるキリストが私たちと共におられるのだからである。
 しかし、それが空しい言葉とならず、現実となるために、私たちは次のことを知らなければならない。すなわち、それは、私たちがキリストの僕である場合にのみ私たちに起こるということである。あなたがキリストの救いを信じて神に帰依したとき、あなたには救いの喜びが湧き起こる。それは、正に天の喜びであり、かけがえのないものである。しかしその後さらに、もしあなたがキリストの僕となることをも意志するなら、聖書に書かれている勝利があなたのものとなるのである。それは、あなたがキリストのものになったからであり、キリストは、ご自身の僕を信頼され、彼にご自身を現されるのである。
 キリストにおける恵みは、信仰者に対して絶妙なバランスで働く。それは、救う側と救われる側のバランスである。キリストの救いを受けるためには、私たちは完全にキリストの足元にひざまずくことが必要である。そして、そのような者に救いは無償で与えられる。もし彼が両手をキリストに向けて差し伸べればである。この救う側と救われる側は、この救いの御業の中で、共にその尊厳を失うことなく融合している。救う者は、僕の形を取りながら、大能の君と呼ばれる。救われる者は、罪人とされながらも「あなたは高価で尊い」と呼ばれる。この救う側と救われる側は、共に神の御姿に創造された神の種族なのである。キリストとその僕の関係もまたそうである。キリストは復活され、力ある神の御子と定められた。そしてその前にひれ伏す者たちも、キリストと共なる勝利者と呼ばれ、キリストは彼らを友と呼ばれるのである。
 あなたが今日、キリストの僕となることを決意し、キリストの足元にひざまずくならば、あなたの内にキリストの栄光の御姿が啓示される。キリストがご自身をあなたに現されるのである。そして、そのとき同時にキリストの権威があなたに与えられる。そのときから、悪霊はあなたの名前を知るようになる。そして、彼らはあなたの命令に聞き従う。あなたがキリストの僕だからである。「キリストの僕」それは、何と言う栄光の姿だろうか。旧約聖書のサムエル記を読んでみたまえ。そこにダビデの勇士たちの雄々しい姿が記されている。キリストの僕であるあなたは、一本の槍で、何千、何万という敵を打ち倒す者になるのである。

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復活のキリストを仰ぎ見る

 キリストは、十字架で私たちの罪を購って下さった。そして、死んでから三日目に復活し、天に戻って行かれた。これらの受難のストーリーは、繰り返しキリスト教会で語られることにより、その内容が空しいものとされたとキルケゴールは指摘した。確かに、この救いのストーリーを聞きながら、それに応答することがいつまでも成されないなら、その内容は空しいものとなり果ててしまうに違いない。なぜなら、この救いのストーリーは、それを聞く者にまさに応答を要求しているのだから。その応答とは、それを聞いた者が、ただ感謝する状態に留まるだけでなく、自らキリストの僕となることなのである。
 しかしこれまでに、いったいどれだけのキリスト教会で、このことが勧められてきただろうか。私の見たところでは、どの教会においても、ただただ救いの恵みを感謝して受けることのみが語られるばかりで、キリストの僕となることについては、それを語ることがあたかも禁じられているかのように、説教者も口を閉ざしてしまっているかのようなのだ。
 しかし、キリストと日々交わり、彼に従おうと願う者は、次ようなのことに思いを馳せるに違いない。すなわち、キリストは復活して、いま何をしておられるのか。キリストは、いまどのようなお姿なのか、ということである。それに対して、十字架に架かったお姿のキリストを思い浮かべることは、私たちの救いを確認することにはなっても、そこから私がキリストに従う力は出てこない。というのは、キリスト御自身が十字架に架けられた状態のままである限り、私はキリストに感謝し、彼に忠誠を誓うことはできても、彼と共に戦うことはできないからである。そのように、私の心の中のキリストが十字架に架けられたままであるなら、私の信仰の戦いは、私自身の決心と孤独な戦いの域を出ないものとなる。その結果、信仰の歩みを進めるのは、私たちの側の努力となってしまうのである。そこで、十字架の福音により、私たちは死人の中から立ち上がることはできても、そこから歩き出すためには、キリストの復活の力を必要とするのである。死から復活された栄光の力に満ちたキリストの御姿こそが、私をして、信仰の戦いを勇ましく進み行かせるのである。そこでは、キリストが救いの象徴ではなく、実際に共に戦われるお方となられるからである。
 しからば、復活したキリストの姿はどのようにして信仰者に啓示されるのだろうか。私たちは、キリストが王の王にして万軍の主であることをしっかりと心に刻む必要がある。そして、このことをしっかりと認識した者は、その当然の帰結として、次のことに思い当たるはずである。それは、キリストが王であり、万軍の主であるかぎり、その御姿を仰ぐことができるのは、王と戦いを共にしている兵卒であり、勇士のみであるということである。かつて軍の先頭に立って出入りしていたダビデの雄姿を仰ぐことができたのは、彼と共に戦場へ出向いた兵士たちだけであった。家にいて、日常的な生活を送っていたイスラエル人は、凱旋したダビデの姿を見ることはできても、敵を打ち負かす、力に満ちたダビデの雄姿を垣間見ることができた者はいなかった。王であり万軍の主であるダビデの雄姿を仰ぐためには、どうしても戦場へ出て行くことが必要なのであった。現代を生きる私たちも同じである。神の民の先頭に立って進み行かれるキリストの雄姿を仰ぐことができるためには、私たちは自ら戦場に身を置かなければならない。私たちは、日常の安穏とした生活を離れ、主の兵士とならなければならないのである。このことに関して、今日、キリスト者の目は曇らされ、その感覚は麻痺させられているとしか思えない。というのは、誰もそのことに気づいていないように思われるからである。そして、毎週の礼拝においては、ただただキリストのありがたい救いのことだけが繰り返し繰り返し何度も語られ、力ある者たちもうんざりしながら帰路に着くのが常なのではないか。
 私たちは、今こそ、復活された王の王、万軍の主なるキリストの雄姿を心に映していただくために、自らキリストの僕となり、すべてを捨て、自分の十字架を負って、戦場へ出て行かなければならないのである。

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救いとキリストの僕

 キリストの十字架の購いを信じ、悔い改めて救われた者は、それだけではまだキリストの僕ではない。自分が救われ、主イエスへの信仰を公に告白し、キリスト教会に属する者とされた者、毎週教会に通い、家では聖書を読み、祈り、賛美の毎日を送る者も、それだけでは、未だキリストの僕とされたのではない。それでは、キリストの僕となるとは、どういうことだろうか。
 それは、彼がこの世的なすべての望みを捨てるということである。彼が、キリストの軍隊に属するということである。なぜなら、キリストが、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には枕するところもない」と言われたからであり、パウロも「競技をする人は皆、すべてに節制をする」と言ったからである。キリストは、十字架と復活により、悪魔に完全に勝利された。しかしその時点では、悪魔は滅ぼされることはなかった。それは、終わりの日まで神により存続を許されているのであり。それゆえ現代は、いまだ悪魔との闘いの時代なのである。それは、神のご計画であり、信仰者がキリストに続いて、この戦線に連なるよう意図されたのである。この意味で、旧約聖書のすべては、この戦線に連なる者にとって、大いなる教えの書である。旧約聖書には、まさにこの闘いと勝利が記されており、敗北もまた私たちへの警告としてそこに記されているからである。そして、それら以上に、そこには、私たちが僕として、兵卒として、どのようにキリストに従うべきかが明確に記されている。そして、そのときに私たちがどのようにキリストによって勇士にされるかが明確に記されているのである。ちょうど、ダビデの僕たちが、彼によって勇士にされたように。
 人が救われるためには、その人とキリストだけがいれば十分である。そして、それ以外のものが二人の関係の間に入り込むとき、救いは効力を失いはじめる。キリストを愛する彼の目に、他の信仰者の姿が映り始めるとき、彼は、キリストにとって、その他大勢の中の一人となり始める。それゆえ、信仰生活を送るうちに、彼の心は純粋さを失い、生活は色あせ、力ないものとなってくる。しかし、彼がキリストの兵卒となろうと決心したなら、すなわち、彼がキリストの僕となることを意思するなら、彼の信仰は、新たな前進の力を得、その歩みは再び力強いものとなる。彼は、その他大勢の中の一人であることをさえ楽しむことができるだろう。彼は、勇士である。ダビデには、多くの勇士たちがいた。そして、それらのすべてが名高い戦士であった。聖書に彼らの雄姿がなんと生き生きと描かれていることか。彼らは、もはやキリストの愛をむさぼることはしない。彼らはキリストを愛し、キリストのために自分の命を捧げることを願う者たちである。そして、それゆえ彼らは勇士であった。
 もしキリスト者が、いつまでも自分の救いを感謝する状態の中に留まり続けるとしたら、それは、彼にとって危険ですらあるだろう。彼が救われるときに受けた愛は、無二の愛であり、そのとき、キリストはただ彼のために死なれたのであるから。彼が救われ、キリストの愛を知るためには、それがただ彼だけのためであることが必要だったのだ。それゆえ救いは、「キリストはあなたのためにも死なれた」とは言わず、「キリストは、まさにあなたのために死なれた」と言う。しかし、救われた者は皆、実はキリストの僕となることに招かれているのである。聖書を読めば、福音書において、キリストはそのように私たちを招いておられるのが分かる。そして、そこに書かれている祝福と力も、すべてキリストの僕に対してのみ約束されているのである。

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