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2008/04/29

主イエスの僕となる

 私たちは、新約聖書の中に力強い信仰の力とすばらしい祝福を読むことができる。そして、日夜それを得ようと教会に通い、説教を聴き、賛美し、祈り、家においては静思の時を持ち、さらに祈り、信仰書を読み、また祈ることをする。しかし、なぜか今日の私たちの信仰生活と聖書に書かれている信仰者の姿とには、かなりのギャップがあるように思える。いつになったら、私たちは、聖書に書いてあることのすべてに「しかり、アーメン」と心から言えるようになるのだろうか。
 かつてソロモンは、神からいただいた知恵により、この世界のすべてのことについて考え、極め、そして一つの結論にたどり着いた。そして、彼はそれを「伝道の書」に次のように書き記した、すなわち「空の空」と。なぜか。それは、ソロモンの時代には、イエス・キリストの恵みがまだ現れていなかったからである。キリストを抜きにしては、この世界のすべてのものは、「空のまた空」であり、風を追うようなものなのである。
 しかし、今日の私たちは、イエス・キリストの恵みが現れた後の世に生きている。それならば、私たちは、聖書に書いてあるすべての恵みを受けることができるはずではないか。それなのに、いまだ悩みと迷いの中にあるクリスチャンがどれほど多くいることか。そのような人にとっては、この聖書の言葉も、まるで風を追うように空虚なものでしかないかのようだ。私は、それがなぜそのような状態なのかを、聖書を読みながら考えた。そして、一つの結論に到達した。もしかしたら、この一点のゆえに、信仰者がイエス・キリストの恵みを受けられずにいるのではないかと思う。これこそ、悪魔がキリストの十字架以来、再びキリスト者に闘いを挑み、そして、ある意味で打ち勝ち、この祝福の一点に関しては、クリスチャンが決して目を向けることがないように、用意周到に準備し、この真理を覆い隠し、闇に葬り去ろうとして成功したのであると。
 しかし私はいまこそ、この悪魔の策略の秘密を明らかにしなければならないと思う。この終わりの時代と言われる現代にあって、再び恵みの雨が後の雨となって降り注ぐために。このことにクリスチャンが本当の意味で気付くことができたなら、その群れは、使徒行伝の時代ように、再び神の人の集団となり、エゼキエルが預言したように、枯れた骨の復活が起こるだろう。この秘密とは、いったい何なのか。それは、人が「キリストの僕となる」ということである。
 主イエスの十字架の購いを信じて救われ、感謝の中に信仰生活を歩んでいる人は多い。しかし、いつしか彼の信仰は色あせ、力は失われ、毎日が空虚に過ぎて行くかのように思えるときが来る。それは、彼がキリストの僕となっていないからである。聖書を熱心に読み、それを実践しようとしても、なぜか力が出ず、祈りにも力がなく、何度悔い改めても、再び同じ罪に捕われてしまうような生活に留まっていることがあるなら、その理由はただ一つ、彼がキリストの僕となっていないからである。それにしても、なぜ、キリスト教会は、人々に悔い改めて救いを得ることを教えながら、キリストの僕となることを教えないのだろうか。これは、本当に一つの謎である。しかしそれは、悪魔がこの祝福の一点を覆い隠し、人々の目を曇らせ、この祝福に対して目を向けさせないようにしているからである。主イエスも、この後の時代について予め警告された。人々の愛が冷え、耳障りの良い言葉の方に反れて行くときが来ると。しかし、聖書を良く読めば分かることだが、キリスト者のすべての恵み、力、栄光は、ただ「キリストの僕」に対してだけ約束されているものなのである。人は、その心に罪を示され、悔い改め、救われ、神の子とされることができる。そのことだけで、彼には天国が約束される。しかし、聖書に約束されている、この世を生きるときの祝福は、ただ、彼がキリストの僕となるときにのみ与えられるのだ。彼が、自分を主イエスに捧げ、自分の楽しみや喜びを捨て、自分の十字架を負って主イエスに従い行くときにのみ、聖書の祝福は、彼に文字通りに与えられるのである。
 私はこれから、ここに「キリストの僕」とはどういうものかを書き連ねて見よう。それは、これまでどの信仰書にも見出されなかったものだ。私は、様々な信仰書を読んできた。しかし、そのどれもが、私が読んだ範囲では、救いの恵みについてのみ多くの紙面を割きながら、キリストの僕となるというこの一点に関しては、ほとんど何も語られ、勧められていなかった。キリストの血の力について書かれた本があった。それらは真理であり、力である。しかし、その真理と力は、ただキリストの僕に対してのみ約束されているものなのだ。また、聖霊の油注ぎについて書かれた本があった。そして、それは真理であり、力である。しかし、その真理と力は、ただキリストの僕に対してのみ適用されるものなのである。そうだ、もし私たちがキリストの僕となっていないなら、それらのものは、そのような私たちにとっては、「空の空」であり、風を捕らえるようなものなのである。
 しかしもし、キリストの僕となっている人がいたなら、その人は、誰からも何も教えてもらう必要がないだろう。彼の内に住まいされる聖霊が彼にすべてを教えるから。それは、本当のことだろうか。私は、本当に違いないと思う。しかし今にしても私は、まだ完全にキリストの僕とはなっていない。否、今私は、その目標に向かって歩き始めたばかりだ。そして、このブログの他の記事と同様、まさにそれを生きながら考え、そして自分の心身でそれを実践しながら、このブログに書き記して行こう。これには、聖書の真実性と私のこれからの人生が掛かっているのだ。

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