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2008/04/17

祝福と呪い

歴代誌下 第7章

 ソロモンが神殿奉献の祈りを終えたとき、天から火が降って、焼き尽くす捧げ物といけにえをひとなめにし、主の栄光が神殿に満ちた。祭司たちは、もはや神殿に入ることができなかった。主の栄光が神殿を満たしていたからである。
 人は救われる以前には、たとえ正しい志においてであっても、あれこれと人間的な考えや戦略で生きているものだ。しかし、救われて聖霊の満たしを受けたなら、もはや人間的な考えは、思いから出て行かなければならない。神の栄光と祭司たちが同居できなかったように、聖霊と人間的な考えも同居できないのである。
 その夜、神はソロモンに現れて、この神殿に関する祝福と呪いを語り聞かせられた。ちょうど申命記においてモーセが民の前にそれを語り聞かせたように。「祝福と呪い」それは、イスラエルの歴史において、不幸にも交互に繰り返されてきた。ひとたび神からの大いなる祝福がイスラエルに注がれたにも関わらず、しばらくの後には、民はその恩恵を忘れ、神が預言者を通して警戒しておられた罪に陥り、神の祝福からそれて恐ろしい呪いの中に落ちて行ってしまった。
 パウロは言う、『もし律法が「むさぼるな」と言わなければ、私はむさぼりを知らなかっただろう』と。ちょうどそのように、罪はそれが言い表された段階で、人間存在にとって可能性となる。そして、その可能性は、無限の時間の中で、すなわち歴史の中でついに現実となるのであり、そのとき呪いもまた現実となったのである。しかし神は、この祝福と呪いの応酬に終止符を打とうと計画されていた。それは、正に民の犯す罪により、この豪華絢爛な神殿が異邦人に踏みにじられ、その後に、人の手によらない真の神殿が建てられることによる。
 主イエスは、ご自身の身体を指して「神殿」と言われた。そして、今日においては、主イエスを信じ、聖霊を与えられた人の心が、戦慄すべきことに、まさに聖なる神殿なのであり、それはまた、黙示録に「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み・・・」と記されていることの予表でもあるのである。

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