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2008/04/10

神殿の場所

歴代誌下 第3章

 ソロモンの神殿は、モリヤの山に建造された。そこは、かつてアブラハムがその長子イサクを神への犠牲として捧げようとしたところであり、その同じ場所で、主イエス・キリストが十字架に架けられる、すなわち、今度は父なる神がご自身の一人子を犠牲として捧げられるのである。
 ダビデは、かつて悪魔の誘いに乗り、イスラエルの人口調査を行い、先見者ガドを通した裁きと赦しの折に、当時エブス人オルナンの麦打ち場であったこの場所を買い取って、そこに祭壇を築き、和解の供え物を捧げた。神は、そこでダビデの捧げ物に、天からの火をもってお答えになり、それを見たダビデは、「神なる主の神殿はここにこそあるべきだ。イスラエルのために焼き尽くす捧げ物をささげる祭壇は、ここにこそあるべきだ」と言って、ここを将来、神殿を築く場所として選定した。
 神は、このように場所にこだわられる。神は、場所を選定し、それに執着しておられるのである。それは、私たちが神を礼拝するのは、この地上であり、そこで神の臨在に接するために、特別な聖別を必要とするからである。そのためにソロモンは、神殿の内側とそこに設置される祭具をすべて金で被い、さまざまな宝石で飾った。また彼は、2体の金のケルビムを造り、その翼で至聖所を覆った。さらに彼は、神殿の入り口の左右両脇に合計2本の柱を造り、その1本をヤキン(確立)、もう1本をボアズ(力)と名付けた。それは、建物としての神殿の天井を支えるためではなく、天と地上のつながりを象徴するものであり、神殿により、人の思いが確立されることによって、あらゆる力が与えられ、この地上の営みが天の雛形によって導かれ、神の高い意志が地上に焦点を結ぶのである。

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友であり、王であるお方

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)ー「キリスト・イエスの囚人パウロ」(フィレモンへの手紙1:1)

 信仰者は、自分を主イエスの「僕」と呼ぶ。しかし、主イエスご自身は、信仰者を「友」と呼ばれる。彼は、私たちを僕とは見ておられないのである。と言うのも、主イエスは、信仰者をロボットのように操られるのではなく、彼らの心に臨在される一方、彼らが自らの意志で、ご自身に従って生きることを願っておられのである。しかし、信仰者がこの主イエスの御心にどこまでも従って生きようとするなら、彼は、主イエスを自分の友と見るわけには行かない。彼は主イエスを絶対服従すべき王と見なければならないのである。このように、主イエスが私たちを見る見方と、私たちが主イエスを見る見方には大きな相違があるが、それは決して矛盾などではなく、むしろ正にそのことこそが、私たちと主イエスの関係、すなわち私たちの主イエスへの従い方を提示しているものなのである。
 それでは、この二つはどのように調和するのだろうか。それは、私たちが主イエスを自分の王として、完全に服従することにより、私たちは主イエスの友となることができる、という形である。私たちが主イエスを友とするのではなく、主イエスが私たちを友として下さるのである。そして、主イエスが私たちをご自分の友とされた後も、主イエスは私たちの王なのである。
 私たちは、このことを理解しなければならない。すなわち主イエスは、王であり、同時に友であるということを。私たちは、主イエスの命令を理解する。そして、それに従うことも、背くこともできる。その意味で、主イエスは私たちの友である。しかし、私たちが主イエスに従おうとするなら、彼に死に至るまで、完全に従わなければならない。その意味で、主イエスは王なのである。
 このことを私たちが理解したとき、これらを調和させるために私たちがなすべきことは何だろうか。それは、「自分を捨てる」ということであり、正に主イエスの次の命令を守ることである。すなわち、「誰でも、わたしに従って来ようと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、それからわたしに従ってきなさい」。そして、このような主イエスとの関係は、旧約聖書に出てくる、勇士たちの美しい関係(例えばダビデとヨナタンの関係)なのである。

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