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2008/04/05

神と神性

説教56:神と神性とについて

 神は、人をご自身の似姿に創造された。そして、神が霊であることから、私たちは、霊として、すなわち性質と働きの両面において、神の似姿に創造されたのである。エックハルトは、それを神の業という。魂は、神の業であり、神は魂の中で神の業、つまり天地創造の業を行われる。また、御子を生むという業を行われる。そして魂自体も神の業であり、その意味で神そのもの、つまり神の子なのである。私たちが神を認識するのは、この働く神、すなわち神の業なのであり、そのような意味で、神は被造物の中に臨在される。神は、信じる者の心の内に住まいされる。それは、彼が神の似姿に創造されたからであり、彼は、その似姿を持って神の業を行い、神の栄光を表すことができるのである。つまり、私たちが「神」と言うとき、そのとき神は、私たちの心の中に住まわれる、すなわちそのとき神は神となるのである。それは、エックハルトの譬えによると、洗面器に水を張り、その中に鏡を沈めたときになぞらえられる。それは、明るい太陽の光を反射し、しかもそれは、真の太陽の光であるが、水中に太陽があるのではなく、鏡は鏡のままなのである。ちょうどそれと同じように、神の業、すなわち私たちが認識する神は私たちの心の内にあり、そこから現される業も神の真正なる業であるが、私たちが神なのではない。このような関係、すなわち私と神と被造物の関係がこの世界の構造なのであり、この関係においては、すべての被造物は、私だけのものであり、ただ私だけのために創造されたのである。そして、それら被造物が神の元に再び帰りゆくのを用意するのは、私だけなのであり、まさにその意味で、私は神の一人子なのである。そして、そこに働く神の業は、愛そのものであり、そのような意味で、神は愛なのである。
 しかし、このような私たちに認識できる神すなわち神の業とは、まったく別の神ご自身が存在される。エックハルトはそれを「神性」と呼ぶ。この神性は、私たちの認識する神、すなわちいわゆる神から遠く隔たっており、神性は神のように働くということをしない。それは、天地創造のときにも、決して働くことがなかったし、これからも永遠に働かれることはない。エックハルトは、それを「神の離脱」と呼んでいる。この神の離脱は、何ものにも動かされることはなく、信仰者の熱心な祈りにも決して動かされることはない。しかし、万物はこの不動性により動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命が受け取られるのである。そのように、神の離脱は、自ら動かされることはないが、すべてのものを生かし、動かす、永遠の愛であり、生命力なのである。エックハルトは言う、「すべての被造物は、その最高の完全性を求めて運動している」と。この不動にして、すべてのものの源なる神性こそが、全被造物の目的なのであり、私たちがキリストを見るとき、この神性から発出する光を見ているのである。
 エックハルトの研究は、これでひとまず終わりにしたいと思うが、今にしても、まだ彼の言うことは、理解できないことが多い。最後にそんな彼の言葉を記しておこう。
 「わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである。」(マイスター・エックハルト)

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